ウェブマガジン カムイミンタラ

1988年11月号/第29号  [特集]    斜里町

自然とともに生き続ける人間のかかわりを伝える活動は 住民に科学する心と文化をはぐくんでいます
斜里町立 知床博物館

  
 オホーツク海沿岸の最南東に位置する人口約1万6千人の町に建つ斜里町立知床博物館は、その展示資料の充実とともに普及活動の熱心さは道内屈指といわれています。そこには秘境・知床半島という大自然をフィールドにもち、自然と人間のかかわりを追究しようとする確かな基本理念とそれを支えている住民の強い協力体制があり、“生きた地方博物館”の姿をみることができます。

主峰羅臼岳の生いたちを学ぶ秋のハイキング

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9月中旬の日曜日、朝6時前から斜里町立知床博物館の前に60人を超す人たちが集まっています。同博物館が町教育委員会の社会体育係とタイアップした町民ハイキングとして、羅臼岳に向かう一行です。目的は、秋の知床の自然を楽しむ野外観察会。知床連山の最高峰・羅臼岳(1660.7メートル)の地質を観察しながら、この山と知床半島の生い立ちを学ぶことにあります。

参加者の大半は年配者と家族連れ。登山口となる岩尾別温泉までのバスの中では、博物館の学芸員である合地(ごうち)信生さんが羅臼岳の登山コースの地形とその地質をわかりやすく説明しています。それに耳を傾ける参加者たちは、自分たちの住む地域が500万年前の海底火山の噴出によって形成されたことを知り、さらに10万年前の噴火によって次々と知床連山が形成され、そのときの岩石がいまもに手に取ることができるという地球活動の壮大さに思いをはせている様子でした。

知床の自然と生物は国民共有の貴重な財産

イメージ(エゾシカの食べ跡調査(上)や氷海の動物の生活をみる自然観察会)
エゾシカの食べ跡調査(上)や氷海の動物の生活をみる自然観察会

一行の向かう羅臼岳は、オホーツク海と根室海峡に面する長さ65キロにおよぶ知床半島のほぼ中央にそびえています。山ろくはミズナラやエゾイタヤ、シナノキ、ヤチダモなどの広葉樹を主体とした原生林で覆われ、高度が増すにつれて、幹の太いトドマツ、エゾマツなどの針葉樹やダケカンバの密生が目立ちます。知床半島の北側半分が斜里町、南側が羅臼町に行政区分され、知床岬からの約400平方キロメートルは日本に残された最後の原始境として、1964年(昭和39)国立公園に指定されました。事実、斜里町側では知床五湖から天然の温水が流れるカムイワッカ川を過ぎた知床大橋と、羅臼町側の相泊(あいどまり)温泉から先への道路はなく、人を寄せつけぬ秘境が確かに残されているのです。

そうした原生の自然環境は、動物たちの楽園でもあります。ヒグマ、エゾシカ、キタキツネはもとより、世界最小のほ乳類であるトガリネズミ、流氷の動物のアザラシ、トド、オットセイまで、北海道に生息するほ乳類のほとんどがこの地で原生の生活を保っているほか、野鳥も日本全土の45%におよぶ230種以上が観測されています。なかでもオジロワシ、オオワシ、シマフクロウ、タンチョウ、クマゲラ、ヒシクイ、マガンなど国の天然記念物に指定されている7種もの野鳥が観察できます。とくに、日本で繁殖するワシタカ類では最大のオジロワシ、アイヌ民族がコタンコロカムイ(村を司る神)と呼び、最高位の動物神であるシマフクロウの最後の繁殖地として、その生息環境の保護が切望されています。

学芸員3人を配置した基本姿勢の確かさ

イメージ(斜里町立知床博物館の全景(斜里郡斜里本町41番地 電話01522-3-1256))
斜里町立知床博物館の全景(斜里郡斜里本町41番地 電話01522-3-1256)

高度経済成長時代のピークにあった70年代は、全国の地方自治体に“博物館ブーム”が起こり、津々浦々に博物館や美術館、郷土資料館が設置されたといってよい時代でした。そんななかで「公民館くらいしかなかったこの町の社会教育施設は他町村に比べて劣っており、社会教育の拠点となる博物館はぜひ欲しかった」と、藤田信夫館長は当時をふり返ります。それは、博物館を建設しようとする自治体共通の思いでしょうが、「資料を展示して見せるだけの博物館ではだめ。町民を対象にした教育普及活動に重点を置き、出版活動も重視しなければ」と、もう一歩すすめた考え方を最初から固めていたのです。折しも、斜里に戸長役場が開設されて100年。その記念事業の目玉として1978年(昭和53)12月28日に開館したのです。

きわだった特徴のひとつは、学芸員3人の配置です。しかも、歴史と民俗、動植物、そして地質と、それぞれに研究を積んだ専門員をおくことになりました。ふつう、地方の博物館では入館者に対する資料の解説は学芸員がいなくてもできます。わが国の博物館法でも「学芸員の配置が望ましい」としているだけで、町村規模で3人の学芸員を置くのは異例のことでした。とくに、地質を担当する学芸員を採用したのは、未知の部分の多い知床にとってはまさに適切であり、とかく関心のうすいこの分野に町民の興味を喚起するうえにも英断だったといえます。

活動をがっちりと支える町民の協力会組織

イメージ(豊かな水産資源に恵まれて漁業は早くから繁栄しました)
豊かな水産資源に恵まれて漁業は早くから繁栄しました

「斜里町民がもうひとつ誇りにしているのは、博物館がたんに自治体の活動だけに終わらせず、住民の手で資金的にもバックアップし、積極的に博物館活動に企画・参加していることですよ」というのは、博物館協力会会長の小泉昇さんです。

「いま、会員は190人。年会費を銀行口座から自動振込してくれる仕組みになっているんですよ。むろん、それだけでは足りないので、寄付その他の収入を財源にして、出版活動をしたり学芸員を海外研修に派遣したりしているんてす。どうしても、町の財政支出だけでは十分な活動はできない。足りない分は、住民が直接支援する。それが“生きた博物館”の活動をうむことになるんですよ」

この協力会に加えて、郷土史研究会、弘前ねぷた斜里保存会、津軽藩士殉難慰霊碑を守る会など町の歴史・文化団体が博物館とがっちり手を組んで事業をすすめています。「うちの金盛典夫課長は郷土史研究会の助言者ですし、中川元(はじめ)学芸員は知床野鳥の会の事務局、合地学芸員は斜里天文同好会の窓口を担当しています。そうした団体による歴史の解明や観察活動が、町の発展なり自然保護なりのあり方を見つけだすことにつながるのだと思って、協力しあっているのです」と藤田館長は語ります。

「自然と文化の生いたちと現代的意義」が展示テーマ

イメージ(長い間冬の貴重な交通・運輸機関だった馬ぞリ)
長い間冬の貴重な交通・運輸機関だった馬ぞリ

この博物館は鉄筋コンクリート2階建て、一部3階建て、総面積は960平方メートル余りとさして大きくははありません。しかし、正面左側に天体観測室をもち、15センチ屈折赤道儀天体望遠鏡が据え付けられています。展示室は断崖模型によって人を寄せつけない大自然の知床半島と、そこで生命活動をいとなむ動植物の様子を。そして、知床半島の生いたち。火山のメカニズム、火山と岩石の関係、化石・鉱石資料などで知床の基礎知識を与えてくれます。

1階はきびしい自然環境のなかで刻みつづけてきた人間の歴史と文化。2万年前までつづいたウルム氷河期は、シベリアと陸つづきだった北海道に北方民族がマンモスなどを追ってやって来ました。千島列島へとつづく知床に石器人が住みついたのは1万年前のこと。やがてオホーツク沿岸には、氷海の民オホーツク文化人が訪れ、そして終えんの地となるのもこの知床なのです。アイヌ民族の祖先といわれる擦文人、さらに現代アイヌ、そして18世紀末には松前蒲の「斜里場所」がひらかれ、和人の移住が始まります。アイヌが“地の果て”と呼び、いまなお秘境を残すこの地にも、これほど多くの民族の生活史が刻まれているのです。戸長役場が設置されてからの100年は、知床固有のきびしい自然条件と人間の闘いであり、恵まれた天然資源による繁栄の歴史です。

2階は知床の動植物を展示。併設の歴史民俗資料館には、発掘調査によって出土した埋蔵文化財とアイヌ民族の文化遺産を展示しています。また2,400平方メートルの敷地には野外観察施設が設置され、動物飼育舎、草木園、復元されたストーンサークルなどを配置するという充実ぶりです。

野外観察会など普及活動が種をまき人を育てる

イメージ(知床の鳥や哺乳類をはく製で展示)
知床の鳥や哺乳類をはく製で展示

この博物館のめざましさは、その教育普及活動にあります。自然視察会、天体観察会、体験学習会、講習・講義、映画会と、開催回数は年間70回にもおよんでいます。春先、船上からヒグマがエサを採りに海岸近くまで降りてくるのを眺めたり、流氷の海でアザラシやトドの生活ぶりの観察などは、子どもたちよりおとなに人気があり、すぐ定員を超えてしまうとのことです。

「博物館は、町民と一体になって活動することが必要です。最初は参加するたけでしたが、よリ詳しく知りたいという欲求が芽生え、観察会のなかから知床野鳥の会もうまれました。そして、そのグループが観察だけでなく、いろんな調査活動をしています。博物館の企画行事が種をまく。そして、人を育てる役割をしていることを感じさせられています」というのは中川さん。合地さんも「地方の小さな博物館は、できるだけ個人に対応する活動でありたい。とくに中・高校生が観察会などを通じて、自然や町の歴史に興味をもち、何年か後にこの町に帰ってきて職場につく、そんなかたちになれば私たちのやっていることが町に根付くことになるのでしょうね」。

博物館を訪れる町民は年々ふえています。博物館の行事から得る驚きや楽しさが知的な好奇心となって、2度、3度と足を運ばせているのです。

協力会が発行元になった出版活動が大きな広がりに

イメージ(博物館協会が発行する郷土学習シリーズ(上)と特別展の解説書)
博物館協会が発行する郷土学習シリーズ(上)と特別展の解説書

毎年1冊ずつ発行している『郷土学習シリーズ』と特別展の解説書は、その内容の深さとていねいな編集が高く評価されています。郷土学習シリーズは10集めの編集作業に入っていますし、特別展の解説書もことしの「斜里町の産業」で10冊を数えます。これらは協力会が発行元。四国や東京など本州からの購読もふえる一方とのこと。

また『博物館研究報告』は、町内外の研究者からの投稿をうけて発行され、各種の普及活動や普及書作成のベースになっています。とくに町民にうけているのが町の広報誌に連載中の『ポン太の博物誌』。漬け物の知識など生活に密着した話題をマンガで表現しています。「いかにわかりやすくするかはむずかしいけれど、やりがいのある作業です」とは合地さんの話。そのほか『博物館のひろば』という町民向けの4ページだて普及紙も発行して活動案内や資料の紹介をするなど、他にみられない熱心な出版活動をつづけています。

博物館と連携して自然体験観察学習をカリキュラムに

イメージ(笹小屋をつくって古代人の生活を学ぶ自然体験会)
笹小屋をつくって古代人の生活を学ぶ自然体験会

町内の川上小学校(生徒数102人)は、博物館と連携した自然体験観察学習を学年ごとのカリキュラムに位置づけて実施しています。昨年と一昨年は知床半島で夜の動物観察会をしました。今春は船の上からのヒグマの観察です。高学年は星座や地層の学習が予定されています。

「やはり、子どもたちにとっては新鮮なんですね。驚くほど集中するんです。学芸員が授業として教室に来てくれて、専門的なことをわかりやすく話してくれるのが、子どもの興味や関心とマッチするのです」

「教師は研究者ではないから、教科書にそって部分的に教えがちです。しかし、知床には動植物や考古学の遺跡、日本でもっとも早くきれいな星が見られることなど、これほど教材に恵まれた地域はほかにないといっていい。それを体系的に科学として教えていただこうというのが、この学習のねらいですが、成功しています」

「その成果と感じたのは、知床の樹の伐採問題が起きたとき。子どもたちなりに知床のビジョンを持ちはじめたようです」

「作文にも、観察学習の体験を踏まえて斜里町の将来像を書いていましたね」

担当の2人の先生はかわるがわるに語り、この学習の広がりに期待をかけています。

地域の文化、学術の公平な情報センターに

イメージ(きびしい自然条件の中ではぐくんできた斜里町100年の産業資料を集めた閉館10周年特別展)
きびしい自然条件の中ではぐくんできた斜里町100年の産業資料を集めた閉館10周年特別展

学芸員の活躍に対する信頼は、町民―というよりも管内に広く浸透してきました。「うちの畑の土を調べてほしい」という農家の依頼があります。傷ついた動物も持ち込まれます。「町史をつくりたいのでアイデアを」という手紙、「学校で教えたいので詳しい資料を送って」という電話。直接こたえたり専門家への橋渡しをしたりでひとつひとつ対応しています。ただ、返答に困ったのは、ある建設会社から「この石は砂利になるか」と聞かれたときのこと。金銭的な利害にかかわる相談は苦手だと笑います。しかし、この町のデータバンク、情報センターとしての信頼と期待が大きくふくらんできているのは確かです。

そして、それにいかんなくこたえたのが伐採論争で町が揺れ動いているときでした。そのときの様子を北海道新聞社会部の川人正善記者は『知床からの出発』(野生生物情報センター編、共同文化社発行)の中で次のように書いています。

『博物館は伐採論争の各局面で、対マスコミの情報センターの機能を担った。マスコミにとっては便利だった。知床に関する基礎データをまんべんなくストック、大学研究者の出入りも多く、町役場内の組織だけに行政側のホットな動きも集まってきたからだ。取材記者はここで基本的な材料を仕込み、現地へ出かけて行った。

博物館のスタッフは「判断材料の提供」に徹した。(略)スタッフは取材を受けると言葉を慎重に選んだが、データは出し惜しみしなかった。知床自らに知床を語らせようとの作戦だった。これが当たった。知床の各所に光が差した。知床という古いブランドが磨き直され再び光り出した』。

藤田館長はしみじみと語ります。

「活動はまだまだ理想に遠いが、意欲ある学芸員を抱えていることに幸福感を強く持っています」と。

自然を守り、開拓の歴史と文化を守るのを町の哲学に

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斜里町長 午来(ごらい) 昌(さかえ)

1970年代のはじめ、この町でも離農者が続出して、その土地がまたたくまに買い占められていきました。そして“知床ブーム”による乱開発の危機が迫ってきたのもこの時期でした。貴重な原生の自然を残さなければならない、苦労して開拓してきた人びとの苦しみや悲しみ、喜びが残っている土地を守り通さなければならない、その熱い町民の思いが「100平方メートル運動」を起こしてきたのです。

その運動のなかで、斜里町憲章、知床憲章がうまれ、全国に先がけて自然保護条例を制定。あわせて文化財保護条例も制定したのです。

博物館は、そんな流れと折から戸長役場開設100年記念事業の目玉として建設への機運を高めたのです。当時、やはり博物館のもつ重要性やその内容を理解できない人もいたのですが、長老たちが純粋な気持ちで支え役にまわってくれました。

ともすれば開発優先、経済優先まっしぐらにものを見る時代であり、うしろなどふり返ることのない世相でしたが、博物館活動は町の再発見をさせてくれました。この町はどんな生いたちなのか、昔なつかしいという思いとは何か、それが子育てに必要なのか不必要なのか。そして歴史のなかに何を学ぶかの問い直しが、博物館のスタッフと町民のふれあいのなかからうまれてきた意義は大きいものがあります。

知床の伐採問題ではずいぶん世間をお騒がせしたが、それは斜里町民の心の原点を問われていることだと思います。100平方メートル運動に参加してくれた全国3万人の重さを心して、森を守り、鳥や獣を守り、荒みがちな人間の心を再生するために、強い意思と哲学をもって進んでいかなければならないと思っています。

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