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1989年05月号/第32号  [特集]    

北海道に理想の酪農郷建設をめざし 不毛の原野を沃野へとの志をつらぬいた道程
わたしの歩んだ道 佐藤 貢

  
 北海道酪農の先駆者である宇都宮仙太郎の牧場で働く姿に感銘をうけて少年時代から酪農家を志した佐藤貢さん(雪印乳業(株)相談役)は、さらに父善七や黒沢酉蔵からも思想的影響を受けて北海道に理想的な酪農の振興をめざし、半生の情熱を注いできました。佐藤さんが奨励した酪農をとり入れる循環農法は、冷害・凶作を繰り返す不毛の地・北海道の原野が乳のあふれる沃野に変わる大きな力となりました。わが国にはほとんど需要のなかったアイスクリーム・バター・チーズの工業化も成功させ、世界の先進酪農国と肩を並べるまでに努めてきた道のりを語ってもらいました。

宇都宮さんの働く姿に「牛飼いは立派な仕事」

1900年(明治33)、ぼくが3歳のとき、北海道庁長官官房に勤めていた父(善七)が小学生時代のけががもとで骨髄炎になり、右足を切断しました。回復後、札幌区山鼻の自宅から道庁に人力車で通っていましたが、金も時間もかかるので現在の市立病院の向かい側に借家を借りて、しばらく仮住まいをしていました。

4歳のとき、北海道酪農の先覚者といわれる宇都宮仙太郎さんが近くの北1条西10丁日付近で牛を飼いはじめていました。わらじ履きで一生懸命牛の世話をしている姿を見て父が感心し、夕食時に「宇都宮さんという人がアメリカの大学を卒業して、ここで牛を飼っている。偉い人だ」と話しました。ぼくも見たいものだと思い、行ってみるとたしかに忙しく働いています。

「宇都宮さん」とみんなが呼ぶので、てっきり“宮様”だと思い、「宮様が牛飼いをしているのだから、牛飼いは立派な仕事だ」と、子どもの頭にこびりついてしまったんですな。

はだしで朝露を踏んで札幌市内を牛乳配達

イメージ(搾乳機の使用)
搾乳機の使用

10歳のとき、学校で陣取り遊びをしていて胸を強く打ち、急性ろく膜炎になりました。家で薬をもらって寝ていたのですが、39度前後の高熱がいつまでたっても下がらないのです。そんなとき、近所のおじいさんがミミズの干したのを持ってきて、「煎じて飲ませなさい」と置いていきました。それを湯飲み茶わんに一杯飲むと、夜中にはひじょうに体が軽くなっているのです。それで朝までぐっすりと眠りました。翌朝、体温計ではかってみると平熱になっています。あれほど危篤状態だったのに、ひと晩で治った。3日目には普通の食事ができるようになりましたよ。父にすすめられて、朝日の出る前に30分間、毎日畑に出て朝露を踏む運動をしていると、1週間後には外で遊べるようになりました。

夏休みになると「健康によいから」というので牛乳配達をすることになりました。このころ、宇都宮さんは白石村に牧場を引っ越しており、父が書いてくれた紹介状を持って行くと、宇都宮さんのお得意を少し分けてもらうことになりました。

朝3時に起き、当時は橋がないので豊平橋を迂回して白石まで、毎日3升(5.4リットル)の牛乳を取りに行きました。わずか6、7軒の配達ですが、自分で殺菌してビンに詰め、かごに入れて苗穂から円山へ行き、中島、すすきのを回って配達するのです。家に帰ると、6時を過ぎます。それを霜の降るまでつづけていますと、父は「運動の目的は達したから、やめてもいい」といってくれました。

牧場風景にあこがれ、屯田兵の子孫の使命感が

アメリカ式の赤い屋根の牛舎とサイロがあり、搾乳(さくにゅう)をしている牧場の風景を、ぼくは子ども心にあこがれていたのです。

牛乳を毎日飲み、母がつくってくれる牛乳ごはんを食べて、すっかり健康を取り戻しました。それ以来、ぼくは牛乳にひじょうな親しみを持つようになりましたな。

もうひとつ、ぼくは山鼻屯田兵の子孫です。屯田兵は、農業をしながら国を守るのが仕事です。ぼくはその子孫で長男だから、農業をやることが宿命づけられていると両親にもいわれ、子ども心にも考えていました。そして、どうせ農業をやるのなら字都宮さんのような牧場をやりたいと思うようになっていたのです。

大凶作の救援運動を手伝って

明治・大正期の北海道は、2年に1度、3年に1度のわりで冷害・凶作に見舞われていました。ことに、1913年(大正2)は農民が餓死したほどの大凶作です。宇都宮さんが救済会の会長、父と黒沢酉蔵さんが役員になり、札幌のキリスト教会の信者を動員して義援金を募集して歩きました。

ぼくは中学2年生でした。冬のさなか、提灯でラッパを温めては吹きながら、毎晩、義援隊の先頭に立って金品を集めましたよ。

足尾鉱毒事件の運動家・田中正造に私淑していた黒沢さんが農村の実情調査をして、餓死した農民が食べていたものを持ち帰って来ました。なんと、稲わらを刻んで石臼でひいて粉にし、雪の下から掘り出した草の根とドングリの実をすりつぶして混ぜ合わせて、ダンゴにして食べていたんですね。まるでウサギの糞のようなダンゴです、栄養もなにもありやしない。だから栄養失調になって死んでいったのです。

穀物と豆に頼る農業が土地をやせさせる

このころの北海道は穀菽(こくしゅく)(穀物と豆類中心の)農業で、家畜を飼っていないから土地はやせる一方です。毎年、無肥料で栽培しているんだから、この凶作は人が招いた凶作なんですよ。

イメージ(タンクローリー車での原乳搬出)
タンクローリー車での原乳搬出

開拓当初は土地が肥えていたから、肥料をやらなくてもイモなど50俵も60俵も獲れたので、それが慣れっこになってしまったんですな。作物が栄養失調になっているから、ちょっとした気象変化や病虫害にもやられてしまい、凶作がつづくのです。そのことを、オハイオ州から来ていたヘッケルマンという宣教師が「こんな穀菽農業、略奪農業をやっていたら北海道の農業はつぶれてしまう。なんとしても酪農をやらなければだめだ」と、さかんに強調していました。それを聞いていて、ぼくの頭には酪農をとり入れて肥料を土地に還元する循環農法の必要性をたたき込まれましたね。

「酪農をやるのならアメリカで勉強してこい」

中学5年になったときの冬、父から「卒業したらどうするのか」と尋ねられました。ぼくは「北大本科に入って酪農を勉強し、酪農家になる」と答えたら、「それは賛成だ」といいます。

しかし、6年間も北大で勉強するのは無駄だというのです。学費が惜しいのかと思って理由を聞くと「日本の酪農は、学問的にも実践的にもひじょうに遅れている。3年間は北大農学部の農学実科で勉強し、あとの3年間はアメリカで勉強してこい」というのです。

約束どおり勉強して、卒業間際にヘッケルマン師がすすめてくれたオハイオ州立大学の入学許可証をとり、休暇がおりて帰国するというヘッケルマン師と同じ船の予約もとったとき、父が腸がんで手術をすることになりました。助からないかもしれないと思ってアメリカ行きをとりやめて付き添っていると、父は「おれは病気で寝ているけれども、おまえは行け」といいます。それで船の予約を取り直し、父に出発のあいさつをしました。

すると「おれはがんで手術をしたのだから、3年か5年で再発するかもしれない。おまえがアメリカに行っているうちに死ぬことがあるかもしれないが、もし死んでも帰って来ることはない。学業を終わってから帰ってこい」といいます。

ぼくは、これが父との最後の別れのような気がして、涙ながらに日本を出発したものでした。

大学の工場でアルバイトをしながら勉学に励む

アメリカの学生は貧富、男女の差なく働きながら勉強しています。ぼくも父に経済的な負担をかけまいと、大学の乳製品工場で実習を兼ねて働きました。町工場の脂肪検定や法的に問題になったサンプルを検査する仕事が回ってくるようになり、月に30ドルくらいの収入があるようになりました。このアルバイトはバターやチーズもつくり、ひじょうに生きた勉強になりましたね。

イメージ(創業当時のハンドチャーン)
創業当時のハンドチャーン

卒業してからはこの工場の主任にされ、1ドル2円程度の時代に年俸1,080ドル(月収90ドル)と決められました。日本の大卒者の初任給が3~40円でしたから、たいへんな高給です。アメリカでの生活費は45ドルくらいあれば十分だったのでしばらく働いていたいと思ったのですが、父が「早く帰れ」というので、1923年(大正12)に帰国しました。

帰国後は牛を飼い、三色アイスクリームを製造

帰国後、すぐ現在の札幌南の沢に農地40数町歩を買い取り、乳牛20頭を飼って自分でバターをつくり、山鼻の家の土間を工場にしてストロベリー、チョコレート、バニラ3色の『自助園アイスクリーム』を製造販売しはじめました。氷と塩の冷蔵庫で硬化させ、丸井(○の中に井)今井デパートの食堂や街のレストラン、菓子店などでよく売れました。

デパートでは旭川も小樽も、函館にも送れという。函館へは夜行便で送ると朝着くので「解けてしまうからだめだ」というと「中身さえ残っていれば、向こうで固めるからいい」というのです。夜も眠れないほどの忙しさでしたよ。

留学のとき猶予してもらっていた徴兵検査の指令が来て、月寒歩兵25連隊に1年志願兵として入隊しました。ところが、そのあいだに北海道酪農にとって大問題が起こったのです。

関東大震災による輸入関税撤廃で酪農は危機に

1923年の関東大震災で、大消費地の東京、横浜は壊滅状態になり、政府は難民救済のために生活物資の輸入関税を撤廃しました。外国から輸入物資がどんどん送られて来たのです。このため、バターやコンデンスミルクをつくっていた煉乳会社は市場を失い、原乳の買い入れを制限し、乳価の値下げを断行したのです。酪農民は困ってしまい、関税の復活と乳価の維持をいくら陳情しても断られるばかりです。これでは酪農をやっていても成り立たないというので、その対策に五十数回も会議を開いたが、結論は出ないありさまでした。

デンマーク農法に学び、北海道製酪販売組合を設立

ところが、1922年(大正11)に冷害・凶作のために北海道の農業を酪農化しなければならないというフで、道職員3人、民間から2人が1年間デンマークの農業を研究するため派遣され、その結果が農民に知らされていました。人口300万人くらいの国が世界の酪農王国といわれ、イギリスを一番のお得意さんにして世界にバター、チーズ、卵、肉類を輸出しています。しかも品質が良いので世界一の高値で売れているのです。北海道もそのような酪農をやろうと意気込んでいた矢先の関税撤廃で、農民は失望してしまいました。

しかし、デンマークの協同組合のことが頭に残っており「政府も煉乳会社も相手にしてくれないのなら自分たちでやろう」ということになり、宇都宮さん、黒沢さん、父の3人がぼくの家に集まって協同組合をつくる相談をしているのです。ぼくは連隊の休暇のたびに帰って聞いていると「組合をつくったら、いくらで牛乳を買い取れるか試算してくれ」というのです。バターをつくるのなら牛乳の10%の重量しかないクリームだけを取って送らせれば運賃がひじょうに安くなる。」と教えると「それでやろう」ということになりました。

しかし「大資本の煉乳会社でさえやっていけないのに、零細な農民の金を集めてやったって、ひとたまりもない」と大反対するグループと「デンマークで成功しているのなら、それを信じてやろう」というグループに二分されました。そこで、賛成者だけで発足することになったのです。出資者は630余人、第1回の払込金は5,450円でした。

それで、ぼくに「おまえはアメリカで勉強してきたのだから、工場の責任者になれ」というのです。ぼくは、自分でバターやアイスクリームをつくって販売しようと、せっかく牧場をつくったのに残念でしたが、自分も酪農民のひとりだし、自分だけが良くて、他の農民がつぶれては困る。「3年か5年ならみんなのために引き受けましょう」ということにしました。ところが、引き受けたが最後、とうとう一生涯その仕事をやるようになってしまいましたな。

“酪農3羽ガラス”といわれた宇都宮さんも黒沢さんも、そして父もみんなクリスチャンで、ひじょうに気が合っていたんですな。しかも、それぞれに特色を持っていましたよ。宇都宮さんは慎重派、黒沢さんは手のほうが早くて、何かあればパッと飛び出すほう。父は違った意見をひとつにまとめていくタイプ。その3人が寄って文殊の知恵を出しあい、ぴったり意気投合して、なにごとも相談しながらやってきた。性格の違った人が集まって、ひじょうに結束が固かったですよ。

苗穂工場を開設、機械は米国からの信用借りで

そんなことで、北海道製酪販売組合が設立したのは1925年(大正14)5月、操業を開始したのが7月のことでした。

イメージ(手回しだったクリーム分離機)
手回しだったクリーム分離機

上野幌の製酪所で朝から晩までひとりで手回しの製造機でバターをつくっていると、3ヵ月もすると腕が腫れあがってきました。しかし、そのころはほとんど需要がないからカメに入れて保存して置きました。それに途中も悪路のため、ひじょうに不便です。製品も動くようになっため、鉄道の引き込み線のあるところを探しているうちに、苗穂に土地が見つかり、そこを買うことにしました。どうせなら近代的な工場をつくろうとぼくが設計したのですが、金がないのです。銀行に融資を申し入れても組合なんか信用してくれません。やっと役員個人の財産を担保にして5万円だけ融資してくれましたが、それでは機械を入れる金が足りないのです。

そこで留学当時のアメリカの知人に「いま金はないが、ぼくを信用して機械を送ってほしい」と手紙を出すと、「開業に間に合うよう発送した」という返事が届き、無事札幌工場は操業を開始できました。もう、これで10ポンド、20ポンドと手作業をする必要がなく、品質改善、品質統一ができるようになって、やっとぼくの念願がかなったのです。

品質が評価され、海外市場へ進出

生産者の協同組合ということもあって、問屋さんがやって来るようになりました。しかし、当時は北海道のバターは知られていないため、消費地で詰め替えて「大島バター」として売りだされたのです。そこでなんとか北海道のイメージで売りたいと思い、出身校の校章のデザインでもあった雪の結晶をブランドマークにしました。

神戸に住む外国人が食味をして品質を保証してくれたため明治屋が輸入品をやめて売ってくれることになり、それにつれて輸入業者がみんな扱うようになり、1933年(昭和8)を契機に日本から外国の製品は姿を消すことになったのです。

海外市場を求めて上海に進出し、そこでアメリカ軍に2万ポンドの納品契約を成功させました。そして、年間13億ポンドも消費する世界一のロンドン市場にも1トンの見本のバターを積んで乗り込み、100万ポンドの取り引き契約に成功し、その4割ほどを送りましたが、世界の戦雲は急を告げ、照国丸が英仏海峡で機雷に触れて沈没したので、危険を同避するためにそのあとの荷はベルリンに回しました。

根釧原野放棄論も出たがいまや北海道の宝庫

1928年(昭和3)に始まった世界の経済恐慌は1930年(昭和5)に日本に上陸。北海道の冷害・凶作がぶつかりあって、まったく悲惨な状態でした。なんの営農計画もないまま道外から移民を募集したため、入植者たちは死の一歩手前までいったのです。1931年(昭和6)の道議会では“根釧原野放棄論”が出ていましたよ。それを翌年、当時の佐上道庁長官のもとで開発5ヵ年計画を立て、永年許されていなかった牧草栽培を認め、5年間、500頭ずつの乳牛を8割補助で導入する更生計画を立てて集乳場を20ヵ所つくりました。

しかし、農民は10円の金もないのです。「それは成功払いでいい」ということにして、各世話所に獣医を配置し、自転車で朝から晩まで指導して回らせました。それがぐんぐん伸びて、いまでは北海道の宝庫になっています。十勝も宗谷もそうです。草さえ生えれば牛は育つのです。土地もよくなりましたよ。

京阪神のアイスクリームは雪印マーク一色に

しかし、バターだけでは組合の経営はなかなかうまくいかない。一時は窮地にあった煉乳会社も息を吹き返し、こんどは生産者団体への攻勢をかけてきて、バターの叩き売りを始めました。それに対抗するため、ぼくの得意のアイスクリームを製造し、その利益でバターの損失を埋めていきました。

イメージ(バターを貯蔵していたかめ)
バターを貯蔵していたかめ

1933年(昭和8)に大阪に工場をつくり、4、5軒あった同業者の設備を買収しました。「こんど北海道から良いクリームを持ってきて、アメリカ式のアイスクリームをつくって売る。品質でも価格でも競争できないだろう。店主には北海道製酪販売組合連合会(酪連)の販売を担当してもらい、従業員は全員引きとって1人の失業者も出さないようにする」という約束をして理解してもらいました。

そんなことがあって、戦前の京阪神のアイスクリームは雪印マーク一色になりましたよ。そのマークが消費者に浸透して、バターも売れるようになってきましたな。

将来の需要を見込んでチーズの工場生産を

1933(昭和8)年ころの日本でチーズをつくっていたのはトラピスト修道院とどこかの試験場くらいで、酪連の早来町遠浅工場が最初でしょうね。当時は日本にいる外国人だけが食べていて、その消費量は15万ポンドといわれていました。そこへ20万ポンド以上の能力をもつ工場をつくったのです。

当時の日本人はチーズを口に入れても吐きだしてしまう状態でした。しかし、食べ慣れていないだけだ。いまに必ず需要がおきると思っていました。現在の消費量は12万トンと、バターの消費量を逆転しています。そのうち雪印乳業が1万2千トン生産していますが、あとの10万トン以上は輸入に頼っています。チーズをつくるだけの乳量がいまの日本にはないのです。だから、チーズだけは1950年ごろから自由化をしているのです。

牛乳はクリームからバターを取ります。そして脱脂乳からカゼインを取り、その残りから乳糖を取るのです。捨てるのは水だけということになります。

乳糖は散薬や錠剤に不可欠なものですが、戦時中は輸入が途絶えてしまいました。

ぼくらはその前から牛乳利用の合理化のためにカゼインと乳糖を製造していたのです。戦後は輸入したほうが安いのでやめてしまいましたが、日本で乳糖を生産したのはぼくらが最初で最後ですよ。

酪連は、戦後、アメリカ占領政策の経済力集中排除法によって分割され、1950年(昭和25)に乳製品を専門に製造販売する雪印乳業(株)が発足して、その初代社長に就任しました。「禍を転じて福となそう」という意気込みで東北をはじめ九州までも手を広げ、外国へはアメリカ、ドイツ、オーストラリア、バンコクにも事務所をもつまでになっています。

牛乳生産量は世界の酪農王国の仲間入りができた

いまから63年前、ぼくが酪農事業に携わって以来、道内各地域に酪農が普及し、不毛の地といわれた根室、釧路、宗谷の原野あるいは火山灰地が乳のあふれる沃野となって、そこに農村工業かおこりました。

とくに、戦後は国民の食生活が著しく変化したことから酪農が全国に急速に広まり、いまやわが国の牛乳生産量は740万トンに達して世界の酪農王国の仲間入りができるようになりました。このことが国民の栄養改善、体位向上に大きな役割を果たしています。

しかし、国民1人当たりの牛乳消費量は欧米諸国の5分の1くらいであり、健康に必要なカルシウム源としては、せめて現在の2倍くらいまで消費しなければ、まだまだ不十分だと思っています。

ぼくが力を入れてきたアイスクリームのインダストリーもひじょうに消費が増え、いま日本の生産量はアメリカに次いで第2位です。しかし、まだまだ少ない。今後いっそう消費を伸ばしてほしいというのがぼくの夢です。

農産物の自由化などの問題が出ています。ぼくはこの年齢なので、その解決は若い人にお任せしたいものと考えています。

佐藤貢(みつぎ)さんの略歴(91歳)

イメージ(北海道酪農の振興と牛乳加工事業一筋に歩んできた半生を語る佐藤貢さん)
北海道酪農の振興と牛乳加工事業一筋に歩んできた半生を語る佐藤貢さん

1898年(明治31)2月14日札幌郡山鼻村(現在の札幌市中央区)に父善七、母フジの長男に生まれる。旧制札幌一中、北大農学部農学実科卒業後オハイオ州立大学に学び、帰国して自助園牧場を経営。1925年(大正14)北海道製酪販売組合発足(翌年連合会へ)とともに技師としてバター製造に取り組む。戦後、雪印乳業(株)初代社長。現在、同社相談役。札幌市開拓功労者表彰、北海道開発功労賞。

北海道酪農連関系の年譜


1876年(明8)
エドウィン・ダン来道。

1884年(明17)
このころの飼養乳牛150頭程度。

1886年(明19)
札幌・岩淵利助が市乳販売はじめる。

1887年(明23)
宇都宮仙太郎アメリカ留学から帰国、市乳・バターを製造。

1897年(明30)
宇都宮仙太郎が牛乳搾取業組合。

1898年(明31)
煉乳会社の設立始まる。

1902年(明35)
宇都宮仙太郎が白石村に牧場開設。

1906年(明39)
宇都宮仙太郎が再び渡米してホルスタイン50頭を輸入。

1919年(大8)
佐藤貢がアメリカ・オハイオ州立農科大学に留学

1923年(大12)
佐藤貢が自助園アイスクリーム製造。関東大震災で乳製品大量輸入。

1924年(大13)
デンマーク農法の学習すすむ。

1925年(大14)
北海道製酪販売組合を設立。

1926年(大15)
北海道製酪販売組合連合会を結成、苗穂に工場完成。

1933年(昭8)
黒澤酉蔵らが北海道酪農義塾設置。

1940年(昭15)
乳製品全国統一価格を実施。

1941年(昭16)
北海道興農公社発足、乳製品事業の一元統制へ。太平洋戦争。

1949年(昭24)
北海道酪農協同株式会社設立、社長に佐藤貢。

1950年(昭25)
雪印乳業株式会社新発足。

1988年(昭63)
酪農家15,700戸、乳牛804,300頭、生乳生産量2,611,417トン(87年)。

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