世界最長の青函トンネルを抜け出した津軽の最初の駅は、『蟹田』である。札幌商工会議所初代会頭の対馬嘉三郎は、122年前の明治元年11月、この蟹田の地に立っていた。えぞ地からの客を迎えるためだった。しかし、待てども待てども客はやってこなかった。
寒風の中で「はるけくも遠きえぞ地かな」と嘉三郎は、客人である松前の殿様の身を案じた。弘前藩士・嘉三郎は、榎木武揚の軍勢に福山城を襲われ、その地を逃れた松前藩主・松前廣徳を藩命によって迎えに出向いていたのだった。
松前藩の君臣72名は、七十余石の小回船『長栄丸』に乗り込んだが、天候が悪く、津軽の海を渡り、嘉三郎の侍つ蟹田にたどり着くのに、結局、2昼夜を要した。
この藩主一行が落ち延びるのに、急迫する榎本軍と、それを食い止めようとする松前軍との間で白兵戦が繰り広げりれた。水牧健・札幌商工会議所付属専門学校副校長の曾祖父水牧梅干保高(みずまきばいかんやすたか)は、剣術師範として松前藩に仕えていたが、このたたかいに隊長として活躍し、戦死する。梅干(ばいかん)は靖国神社の御霊第1号に祀られる。
戊辰戦争をめぐるこの札商秘話の舞台、松前と蟹田の地は、いま青函トンネルで結ばれる。この青函トンネルも札幌商工会議所を中心とする期成会の運動によって、昨年3月開業にこぎつけたことを考えると、歴史の織りなす因縁に驚く。
早いもので、その青函トンネルもこの3月で開業1年を迎え、実に300万人以上の人たちが利用した。松前の殿様の一行が、2昼夜かかってくたくたに疲れ果ててたどりついた旅路を、寝台特急『北斗星』はわずか31分で海底部分を走り抜ける。一流レストラン並みのディナ一や個室寝台が売り物の『北斗星』に目を見張る、松前の殿様一行72名の姿が津軽の野に浮かんでくる思いだ。