ウェブマガジン カムイミンタラ

1989年11月号/第35号  [特集]    猿払村

漁業者の熱意と努力の結晶が貧しさにあえぐ過疎の村を救い “育てて とる漁業”に成功の道をひらいたのです
猿払村のホタテ漁業

  ニシンが北海道の沿岸から幻のように消えた1955年ごろからの20年間、疲弊のどん底にあえいでいた浜の漁業者を救ったのはホタテの増養殖漁業でした。海を耕し、種をまき、大きく育ててとる栽培漁業に、宗谷地方猿払村(さるふつむら)漁業協同組合(太山金一組合長 組合員159人)の漁業者たちが実りの花を大きく咲かせたのです。漁業者と試験研究機関、地元行政が三位一体となって必死の努力と熱意でかちとった猿払村のホタテ漁業の成功は、沿岸漁業者に希望を与え、200カイリ時代に生きる日本の漁業のあり方をも指し示しています。

ホタテはサケと並んで北海道を代表する水産物

北海道はその周囲が3つの海に囲まれ、世界有数の漁場のひとつといわれています。

(02)

『北海道水産現勢』によると、1987年(昭和62)の総漁獲量は約305万トン、金額では約3636億円を超えています。魚種別でもっとも水揚げ金額の多いのはサケで8万9000トン、約583億円(16.0%)。第2位がホタテの22万1700トン、535億円(14.7%)です。以下、スケトウダラ、イカ、コンブとつづきますが、この数字が示すとおり、北海道の漁業にとって、ホタテがいかに重要な水産資源であるかがわかります。

ホタテの増養殖漁業は、北海道沿岸のほとんどの浜で実施しており、なかでも盛んなのはサロマ湖を漁場とする網走地方と、噴火湾を漁場にする渡島、胆振地方の漁村です。本州では、青森県を中心とした東北地方が先進地で、北海道の沿岸漁業者はここから多くの技術を学んできました。

一昨年の全国のホタテ水揚げ量は約29万7800トンです。じつに74.4%を北海道が占めているのです。この年、北海道でもっとも多く水揚げしたのは網走地方の常呂漁協で、その漁獲量は2万5900トン、水揚げ金額は73億9000万円。猿払村漁協は1万1800トン、25億5500万円でした。これは漁場を整備し直したため、近年でもっとも少ない漁獲量で、ことしは2万5000トンを予想。猿払村のホタテ漁は依然、健在ぶりを示しています。

その猿払村は稚内市から58キロ、札幌市からは370キロ離れたオホーツク沿岸の北の端に位置しています。人口は3469人、1038世帯(1988年6月現在)。しかし、面積は588平方キロで、村としては日本一広い面積を有しています。産業の中心は、酪農と漁業。とくに、ホタテ増殖事業の成功によって村の財政はよみがえり、この村の名が全国に知られるようになったのです。

ホタテ漁業が若者を村に呼び戻した

イメージ(3代がホタテ漁業者の本澤さん親子)
3代がホタテ漁業者の本澤さん親子

注目されるのは、ここ15年間の人口動態です。1980年に比べて昨年は85世帯も減っているのに、人口は95人も増えているのです。とくに、ホタテ漁がゼロだった1975年に比べて、5年後の1980年には20歳から34歳までの働き盛りが63人も増えていることです。これは、ホタテの水揚げが本格化して村や漁家の経済が向上したため、若者たちのUターン現象を呼び起こしたのです。

それは、漁業協同組合員の数の動向からもいえることです。太田金一組合長(73)は、その推移を次のように語ります。

「組合を設立した昭和24年(1949年)は378人でしたが、私が組合長に就任した昭和36年(1961年)には182人に減っていました。そして、ホタテをやり始めた昭和46年(1971年)は65人にまで落ち込んでいたのです。この浜で漁業をしていたのではメシは食えない―そんな思いで、漁師はこの浜をどんどん捨てて行ったのです」。

「密漁の常習組合」「日本一の貧乏村」とウワサされて

1954年(昭和29)を最後に、北海道の沿岸からニシンはまったく姿を消してしまいました。猿払ではサケも思うようにとれない。そして、1942年(昭和17)には一漁場としては驚異的な1万4千トンもとれたホタテも、乱獲がたたって数十トンにまで減り、1958年(昭和33)には禁漁にして水揚げはゼロとなったのです。

一方、高度経済成長の波に乗って力のある漁業者は底引漁に向かい、トロール船で沿岸の漁場を根こそぎさらっていく。零細な沿岸漁業者は、とる魚がなくて貧窮のどん底にあえいでいました。「猿払は密漁組合だ」と、監督官庁から目をつけられる時代がつづいたのです。

貧しさは、村全体をも覆っていました。「昭和30年代まで、村の経済は石炭と木材でうるおっていました。しかし、40年代にはいると炭鉱は相次いで閉山し、林業も衰退してしまったのです。戦後の緊急開拓で入植した農家は、自然河川のそばで開墾していたため、毎年のように洪水に見舞われて悲惨な状態がつづき、次々に離農していくありさまです。村は火の消えたようにさびれ、村民の気持ちも沈滞していましたね」と、笠井勝雄村長(66)も初就任した1969年(昭和44)当時を語ります。

それからまもなく、このふたりはホタテの培養殖事業に立ちあがるのです。

「浜をよみがえらせるのはホタテしかない」

イメージ(商工会と漁協の青年部が開くホタテ祭り)
商工会と漁協の青年部が開くホタテ祭り

「組合の記録などをみると、ホタテがもっとも猿払の海に合った産物なんですね。明治時代からこの沿岸には干し貝柱の製造技術があって全国の7割ちかくを生産し、香港などに輸出していた実績もあります。そこで、試験研究機関や先進漁協が開発している栽培漁業の技術や種苗(養殖の種にする1年生のホタテガイ)の生産状況などを調べて、これしかない、と腹を決めたのです。それ以外に考える余裕などなかった。端から見れば気狂いじみていたかもしれませんね」と太田組合長は笑って語ります。

あの広い、しかも対島暖流が宗谷海峡から流れ込む潮の速い海に、直径4センチほどの稚貝(幼い貝)を買ってきてばらまこうという計画です。さらに、3年間、海の底でじっと育ててから、とろうというのです。「そんなことしたって、1人前の水揚げができるはずがない。どっかに流れて行くにきまってる」と、だれもが信じられないことでした。

それだけではありません。ただでさえ乏しい水揚げ代金のなかから、5%をこの計画のために天引き貯金をしようというのです。組合員は、そのほかにも組合手数料や備荒貯金(凶漁・災害に対する準備金)などで13%以上が差し引かれることになります。さらに、個人経営をやめて、共同企業体方式をとるというのです。

「最初は、組合員の全員が反対でした。2度目にこの計画を話すと、半分が賛成しました。そのうちに、おれらと同じように船に乗って漁をしていた組合長のいうことだから、ここはひとつ信用してみるか」というように変わっていったのです。

村議会では税収の1年分を注ぎ込む議決を

しかし、漁業者の天引き貯金や組合の手持ち資金ではとうてい足りないのです。北海道庁や漁業系統機関に融資を頼み歩いても「そんなバクチのような事業への融資はどうも…」と、容易に色よい返事をしてくれません。そんななかで味方になってくれたのは、やはり地元の人たちでした。

1971年(昭和46)3月の村議会で、ホタテの大規模放流事業に3年計画で4220万円の融資する案を議決したのです。村の年間税収は4600万円程度ですから、その1年分を3年間で投入するという画期的な議決をしたことになります。

このとき、笠井村長は「ホタテは2度カネを生む産物だ。海から揚げてカネになり、加工してまたカネになる。加工場を造れば建設業者もうるおうし、主婦たちの雇用も促進される」といって、不安な面持ちの議員たちを説得したといわれています。

しかし「村の1年分の税金を、3年間で海に捨てることになるかもしれないわけですよ。もし失敗したら、組合長とふたりで腹を差し違えて死ぬか、首をくくろうや、と真顔で話し合ったものです」と、笠井村長は当時の悲壮な決意のほどを語ります。

「だれがいらばん辛かったっていえば、それは組合長だと思いますね」と、思いやるのは本澤勇さん(56)です。「わしらも苦しかったが、組合長のいうことを信じて一生懸命やるだけだったんです。浜に残った漁師は、みんなそうです。それだけに、組合長はホタテがとれるようになるまで、どれだけ心配したことか。寝ても眠れない毎日の3年間だったと思いますよ」。

稚貝1400万粒を神に祈りながら放流したが…

道立水産試験場の職員や道水産普及指導員の熱心な指導で、噴火湾の虻田漁脇から1400万粒の種苗を買って初めて放流したのは、その年の春のことです。

虻田の組合から「稚貝をトラックに積んだ」という連絡が入る。猿払の浜では、害敵のヒトデを駆除し、漁場をきれいに整備し終えた漁業者60数人が待機しています。

イメージ(けた網で水揚げしたホタテは、生鮮に、加工にと陸送される)
けた網で水揚げしたホタテは、生鮮に、加工にと陸送される

「虻田から猿払まではトラックで13時間以上かかります。幼い貝は陸上での生命力は弱い。とくに10時間を過ぎてからは急カーブを描いて死亡率が高くなる。海に戻してやる時間は、一刻を争うのです」当時、放流の指導にあたった富田恭司さん(47=現道立中央水試企画情報室長)には、あのときの漁業者たちの真剣な顔がいまも目に焼きついているのです。そして「いよいよ稚貝を海にまくときになって、太田組合長が漁船の右舷と左舷に1升びんの酒をまき、かしわ手を打って祈る。それを見て、私たちも思わず武者ぶるいを感じたものです」。

しかし、その喜びも束の間でした。その年、成長状態を調査するため130個の育成貝を揚げてみると、28個しか生き残っていないのです。「死に殻の多く入った箱を持って町長と組合長のところに説明しに行ったときは、ほんとうに辛かった」と富田さん。しかし、このときの太田組合長は、「生存率が少なければ、大量の種苗を放流して大きな群れをつくればいい」といって、動じなかったといいます。

その翌年から、猿払では6000万粒の種苗を買って大々的に放流しました。組合の自己資金に加えて、道から8000万円の助成金、系統機関からの融資1600万円、それに国の過疎地特別振興対策事業の補助金4000万円も受けられるようになり、総事業費4億2000万円を投入する大規模な放流事業が村の命運をかけてスタートしたのです。

3年後、喜ムにわいた初水揚げ

猿払の漁業者たちが熱い思いと必死の努力で整備した海の底で、ホタテは順調に育っていました。

1974年(昭和49)、待望の初水揚げです。「八尺」と呼ばれるけた網で、直径13センチほどに成長した3年貝がザクザクと引き揚げられます。そのときの喜びは、とうてい言葉に尽くすことのできないものだったに違いありません。

その年、1674トンが水揚げされ、生鮮で、あるいは加工品となって、全国の市場に出回っていったのです。

徹底した漁場管埋が海をよみがえらせた

その翌年は4300トンを超えました。そして、1979年(昭和54)からは、3万トンちかくがコンスタントに水揚げされるようになりました。

猿払の海は、よみがえったのです。

「いま、猿払の海では天然貝の再生産が起こっています。ほかの養殖地帯では稚貝を篭に入れ、海に垂れ下げて育てるから、入れた分の70%前後の歩どまりでとれるだけですが、ここでは放流した以上の数量を水揚げしています。海底の状態を調べてみると、放流した貝と共存して天然貝が自然発生しているのです。なぜそんなことが起きたのか理由はわかりませんが、天然の資源は確実に回復しているのです」と、富田さんはいいます。

イメージ(むき身、干し貝柱、玉冷(冷凍ホタテ貝柱)などを製造する加工場風景)
むき身、干し貝柱、玉冷(冷凍ホタテ貝柱)などを製造する加工場風景

猿払の漁業者たちは、ホタテの天敵であるヒトデを1匹も残すまいと、懸命になって害敵駆除をしています。種には、健苗といわれる元気な稚貝を厳選していること。そして、1平方メートルに5枚ずつになるように適正放流し、過密にならないように注意しながら、しかも大きな群れをつくっていくのです。ここでの放流は「輪採方式」といって、海区を4つに区切り、1年に1区画ずつ種をまき、順次とっていく方式を採用しています。

「その真剣さに、私たちは心を打たれましたね。猿払の漁民はホタテに命をかけている。われわれも全力投球しよう。そして、ここを栽培漁業のモデルにしよう、という強い決意を私たちにも与えてくれたものです」と、試験研究によって開発された栽培技術のすべてを提供しつづけた当時のことを富田さんは懐かしそうに語ります。

天の時、地の利、人の和が成功を生んだ

猿払村漁協の組合長室には、『天地人』と大書した額が掲げてあります。

“天は天の時”であり「ものごとにはチャンスが大切だ」と太田組合長はいいます。もしあの年でなかったら、希望する数の種苗は入手できなかったろう。あの年だったから村の支援態勢もでき、漁業者もやる気になったというのです。

地は“地の利”のことです。1963年にやって来た北海道大学の海底調査船・くろしお号が、猿払はホタテ増殖の最適地だと太鼓判を押してくれました。その海を耕し、害敵を駆除することによって、ほかの地域にはない自然の恵みが猿払の漁民に世界一のホタテ漁場を与えてくれたのです。

人は“人の和”です。65人の組合員が心をひとつにして挑戦しました、3年間、よく辛抱し、頑張り抜くことができたのは、人の和の偉大な成果でした。

しかし、太田組合長は「この事業を成功に導いたのは、99%の自然の営みと、1%の人間の知恵だと思っています」と、自然の摂理の偉大さを謙虚に語るのです。

収益を老人福祉に寄付し 種苗提供の恩返しも

「村税の90%は、なんらかの形でホタテの恩恵によるものといっても過言ではありませんよ」と、笠井村長はいいます。村の歳費からの融資を議決したときに公言したとおり、加工施設は6つに増えて460人が雇用されています。

税収が伸びたことによってさまざまな公共施設が建設され、かつては屋根に石を置き、ムシロを戸の代わりにして暮らしていたような漁村に、次々と“ホタテ御殿”と呼ばれるほどの住宅が建ち並ぶようになりました。そのことによって建設業者もうるおい、村の経済も漁家の所得も夢のような向上を遂げました。

しかし、それは自分たちだけの努力でかち得たものではない。支援してくれた村の人たち、とくに貧困の村を守り抜いてきた先輩たちへの感謝を意をあらわそうと、ホタテの収益の一部を積み立てて基金にし、70歳以上のお年寄りに敬老年金を支給しています。老人医療の無料化を賄っているのもホタテ基金です。

また、虻田のホタテが有珠山の爆発によって大量に死んだとき、種苗を送りつづけてくれた漁協の組合員に590トンの半成貝と見舞金を贈って思返しをしました。

これらは、今日を築くために支援してくれた人たちへの感謝の気持ちを忘れまいとする組合員の総意によってつづけられているものです。

苦労を知らない世代に変わり 今後は人づくりが課題に

あれから20年、当時苦労した人たちは引退して、しだいに新しい世代に受け継がれています。

豊かになったがゆえに、ともすれば「万人はひとりのために、ひとりは万人のために」という協同組合の精神を忘れて、身勝手な考えや行動を示す人もでてきます。

そんななかで、村長も組合長も「この村を、ほんとうに物心ともに豊かな村にするため、今後は人づくりに力を入れたい」を最大の課題にしていワす。

しかし、着実に若い芽も育っています。本澤さん一家の3代目・日出夫さん(27)は、3年前、父から舵(かじ)を譲ってもらい、1人前の船頭として第8善見丸(14.96トン)に乗って毎朝出漁しています。

「じいさんや親父たちが苦労してこれまでにした話は、よく聞いています。そして、こんどは、おれたちがこの浜を守っていく番だという覚悟も青年たちのあいだにできていると思います。若者らしく科学的な生産をしようや、という話をよくしてますよ」と頼もしく語ります。

ホタテ研究会にも若者が参加しやすくなり、漁具や漁法の再検討もしているとのこと。また、とるだけでなく、消費動向や流通の状況もこの目で確かめようと、青年部が札幌で産地直売を体験しています。

そんななかで、小樽水産高校で栽培漁業を教え、ホタテ養殖について多くの著書をもつ境一郎教諭(60)は、次のように話します。

イメージ(猿払で発掘された4000万年前のホタテの化石)
猿払で発掘された4000万年前のホタテの化石

「猿払の成功は、すぐれた指導者と浜をよみがえらせようとするぎりぎりの努力のなかでかち得たものです。私も、苦労した人が残っているうちに、その努力の跡を教育の場で正しく伝えながら、後継者の養成に努めたいと思っています。日本の沿岸漁業は、重要さを増してきます。それぞれの浜で培った伝統を正しく受け継ぎ、いま以上に栽培漁業の発展に尽くす若者が育ってくれることを期待しています」。

◎この特集を読んで心に感じたら、右のボタンをおしてください    ←前に戻る  ←トップへ戻る  上へ▲
リンクメッセージヘルプ

(C) 2005-2010 Rinyu Kanko All rights reserved.   http://kamuimintara.net