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1992年11月号/第53号  [特集]    上川町

石狩川源流の清らかの水ときれいな空気、豊かな緑の中で日本一の味づくりとまちおこしに意欲を燃やす
ラーメン日本一の会 上川町

  
 北海道の著名な観光地には膨大な数の観光客が吸収される一方で、本市街地は訪れる人も少なく、そのギャップに悩む自治体が少なくありません。大雪山国立公園の玄関口である上川町も、過疎化と片寄った人の流れの解消に苦慮する町のひとつ。そんななかで、本市街地の健在ぶりを力強くアピールしたのが『上川町ラーメン日本一の会』(柴山昌春会長、事務局=上川町商工会内・078-17上川町花園町281 電話01658-2-3111)です。その活動に呼応するように、本町への客足流入をめざす、さまざまな対応がみられはじめています。

年間300万人の観光客を迎える石狩川最上流の町

上川町は北海道の中央部、旭川から約48キロ西に位置し、日本最大の、そしてもっとも原始の姿を残す山岳公園・大雪山国立公園の玄関口の町です。

町の西側入口に愛山渓温泉、東側に層雲峡温泉、そして大雪山のふところ深くに湧く大雪高原温泉と3つの温泉郷があり、そのどれもが標高2000メートル級の峻嶺がつづく大雪山連峰への登山口でもある一大観光地です。

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一方、町域の南端、大雪山の中央部にそびえる石狩岳(標高1967メートル)のふもとに源を発する全国第2位の大河・石狩川(流長268キロメートル)は、国道39号と並行して町域の中央部を流れています。大雪山の万年雪を解かして伏流するこの水を飲料水に利用する上川町の水質は、町民の自慢のひとつでもあります。

ひと晩の宿泊客の数は町の人口を上回る

上川町に入植が始まったのは、明治20年代後半からです。農業は気象条件に恵まれず、冷害の常襲地といわれるほどでしたが、町の面積の95%におよぶ森林面積に恵まれ、開拓当時は無尽蔵といわれた森林資源によって林業が発達して、1960年(昭和35)の人口は15300人近くにまで伸びる繁栄をみせました。その40%は林業関係者で占められていましたが、この年をピークに、林業の低迷、離農者の続出が相次ぎ、現在は6200人にまで人口が減っています。

この過疎化の波に反比例して伸びつづけているのが、観光客の来訪です。年間の入り込み数は300万人を超し、観光シーズンにはひと晩に町の人口を上回る7000人もが層雲峡をはじめとした温泉地のホテルや旅館に宿泊しているほどで、この町の観光は「100億円産業」といわれています。

日本のトップクラスの温泉地を持つ登別市、洞爺湖や阿寒湖を持つ虻田町、阿寒町など、北海道観光のメッカといわれる多くの観光地は、躍進する観光産業と地元産業との結びつきがじゅうぶんに図れなかったり、本市街地が観光地から離れた位置にあって客足の流れを吸収できず、町内の経済格差に苦慮している市町村も多いのです。

イメージ(「ラーメン日本一」の店が並ぶ商店街)
「ラーメン日本一」の店が並ぶ商店街

上川町の場合、もちろん、観光産業への地元雇用の増加や、クインサーモン(ニジマス)を養殖し、刺身や姿焼きを製品化してホテルや旅館に卸して業績を伸ばしている上川町淡水魚協同組合など、地元産業への経済効果をあげている例はあります。しかし、市街地と層雲峡温泉街とは24キロメートルも離れており、しかもそこへ通じる国道39号は市街地から大きくそれています。また、市街地にあるJR駅を利用する客も、列車の発着にあわせて接続するバスによって市街地は素通りしてしまうことが多いという悩みを抱えているのです。

客が太鼓判を押してくれたラーメン日本一の町

そんななかで、外来者の足を少しでも多く引寄せようと立ち上がったのが、『上川町ラーメン日本一の会』です。この会の呼びかけ人である柴山昌春さん(45)は、一時この町を離れて埼玉県に働きに出ましたが、体調をくずしてUターンした人です。

「ちょうど過疎化が始まっているころで、帰ってみたら、みんな背中を丸めてうつむいて歩いています。埼玉の勢いとはまるで違っていて、町の中に夢も展望もない。これではいけないと思いましたね。考えてみると、日本じゅうが工業化社会の波に押しまくられて第一次産業は次々に崩れ、日本の山村はどんどん荒廃しているんです。この町は観光産業こそ伸びていますが、一次産業に従事している人や、われわれのように観光地から離れた市街地で営業している商店にとって、その恩恵は少ないのです。しかも、市街地には人口のピーク時の商店がそのまま残っています。このまま町内だけを対象に商売していても発展はない。もっと町を外に売り込む方法を考えよう、と仲間に呼びかけたのです」と、会発足の動機を話します。

『ラーメン日本一の会』が1986年(昭和61)12月に発足する前、柴山さんは町の青年たちに呼びかけて『イシュ・カラベツ(石狩川のアイヌ名)の里』という、まちおこしグループを組織したことがあります。町の出身者やゆかりの人を「ふるさと大使」に任命し、観光案内や特産品のリストを送って町を売り込もうとしたのですが、思うように事が運ばず自然消滅してしまったのでした。

「この会は失敗しましたが、そのなかに、なんとか町をよくしたいという熱意を持ちつづけている人が何人かいて、あれこれ考えているうちに、ラーメンに思いあたったのです」。

毎年大雪山に登山に来る人や、全国を回っているセールスマンなど、この町の常連客といえる人が大勢います。その人たちが上川町に来ると、よくラーメンを食べます。そして「この町のラーメン屋さんは、どの店も安心して食べられる。当りはずれがない」と、よく言っていたとのことです。また、隣町の愛別町に進出した本州企業の人もときどきラーメンを食べにやって来て、「この町のラーメンの味は日本一ではないか」と、いつも褒めていたといいます。

イメージ(菜の花が一面に咲きそろうアンガス牧場の向こうに残雪の大雪連峰が)
菜の花が一面に咲きそろうアンガス牧場の向こうに残雪の大雪連峰が

「お客さんが日本一だと言ってくれるのだから、間違いないぞ。しかも、どこそこの店が…というのではなく、みんなの店がおいしいと言ってくれたではないか」。柴山さんは、親しい同業者で現在副会長である鎌田康雄さん(38)とともに、自信を持って『日本一』のアドバルーンを掲げる決意をし、町内でラーメンをメニューに入れている食堂の全店に呼びかけました。そして、14店が加盟店となったのです。

ラーメンは戦後、全国を風靡(ふうび)した北海道発の味覚

ラーメンは、いまでは北海道の味覚を代表する食べもののひとつ。第二次大戦後、これほど全国を風靡した食べものは、ほかにないといわれるほどです。

ラーメンとは中国語で『拉麺』と書き、細い麺のことをいいます。日本ではそれを調理したものを『支那そば』とか『中華そば』と言い、中国料理を下敷きにした日本流の発明料理ですが、その発祥はよくわかっていません。神戸あたりが最初ではないかとされていますが、明治末期には札幌、小樽などで支那そばを供する店があったといわれ、戦前は各地で屋台を引く店も多かったようです。ラーメンの専門店ができ、ラーメンが庶民の食品として愛好されるようになったのは1950年代に入ってからです。上川町にラーメン専門店がおめみえしたのも、そのころでした。

柴山さんの父が、この町でラーメンの専門店を開いたのが1955年。柴山さんがその後を継いだのは1965年のことでしたが、前後して多くの専門店が営業をはじめ、いつのまにか人口に比べてラーメン店の数が目立つ町になっていました。

ラーメン好きな町の人が育ててくれた味

北海道のラーメンといえばサッポロラーメンや旭川ラーメンがメジャーですが、あえて上川町が『ラーメン日本一』を標榜する自信はどこにあるかを尋ねると、柴山さんも鎌田さんも口をそろえて「石狩川最上流のきれいな水とさわやかな空気、豊かな緑と、三拍子そろった町で作るラーメンは他にはありませんよ」と言います。

とくに、大雪山の万年雪を伏流水にした水を使って麺とスープを作っており、食品は不純物の少ない、きれいな水を使うのが味の決め手だというのは、確かなことです。そして、もうひとつ上川町のラーメンの味を向上させたのは、ほかならぬ上川の町民自身だというのです。

「この町の人はもともとラーメンが好きでしたから、どの食堂でもラーメンを出さなければ客が来てくれない。それに、上川は外食人口の多い町なんです。大きな観光地をかかえているため主婦などがパートで働きに出ている家庭が多いので、時間超過などで夕食のしたくが遅れたりすると、どうしても出前を取ることになります。そんなとき手軽なラーメンが好まれ、この町ではラーメンが準主食になっているのです。ですから、ラーメンがおいしく作れない店は客足が遠のいてしまうので、たがいに切磋琢磨して、おいしいラーメンを作るようになりました」。

現在、加盟店の店主たちは隔月ごとに集まって、学習会を開いています。

イメージ(ライトアップした冬の大展望台)
ライトアップした冬の大展望台

「ラーメンはどちらかといえばマイナーな食品というイメージから抜け切れていないのです。たとえば、おそば、おうどんと言う人はあっても、おラーメンとは言ってもらえない。戦後の貧しい時代に、もっとも安く、手軽に食べられる庶民の食品だったので、色の禿げたどんぶりを平気で使っていたり、店内の清掃や美観にも無頓着な店が多かったものです。ところが、ファミリーレストランがなぜお客の心をつかんだかと言えば、ガラスをきれいに磨き上げた店内にしゃれた椅子とテーブルが置かれ、ナイフとフォークを使って食べる。いわゆるカツドン屋のイメージを払拭し、安い料金でお客をリッチな気分にさせたからですよ。ラーメンはポピュラーにはなったが、まだまだ食品としての人格は形成されていません。なんとか工夫して、品格を評価される食品にしようじゃないか。そんなことを、みんなで学習のテーマにしているんです」と柴山さんは真顔で話し、発足のときにつくった『ラーメン憲章』を全店が守る努力をしているのだと言います。

手作りで添加物を控え、ちぢれの少ないシコシコ麺

加盟店のほとんどの店に麺を卸し、みずからも加盟店である(有)三輪、事専務の三輪登さん(42)は、麺作りの苦心を次のように話します。

イメージ(ラーメンの味のいのち、麺とスープは石狩川上流のきれいな水を使って作られる)
ラーメンの味のいのち、麺とスープは石狩川上流のきれいな水を使って作られる

「どの店も、いかにしておいしいラーメンを提供するか真剣ですので、苦情や注文が多いですよ。粉は地元で作っていないので市販の粉を使いますが、水は大雪山の伏流水を汲み上げて使っています。それに余分な添加物や着色料を使っていないので、一般の麺よりちぢれが少なく、細目で、白っぽい色の感じでしょう。ここは出前の多い町なので、麺はやや堅めに作っています。苦心するのは小麦粉を主体にした材料や塩加減など、ブレンドの仕方と練り方でしょうか。それに、上川町は夏の暑い日は気温が35℃前後にまで上昇する半面、冬は氷点下30℃を超すという激しい温度変化がありますから、その温度、湿度の管理がたいへんです。それに、オートメ化に頼らず、手作りが主体ですので、手間がかかります。勘が頼りですが、目先だけを変えるようなことはせず、基本的な手法を守って作りつづけています」。

そんな三輸さんをうれしがらせるのは、上川から転出した人が三輸さんの作る麺でなければ…と、遠くから注文してくることだと言います。1杯のラーメンの味がふるさととの絆をつなぎつづけることができるのを、三輪さんは大切なことだと思っているのです。

スープと具の工夫で各店が個性を競いあう

ラーメンの味のもう一方の決め手であるスープ作りは、各店の腕の見せどころです。かつお節と豚骨を合わせている店、野菜と昆布と豚骨を組み合わせている店、鶏がらや豚足を使っている店と、さまざまです。

具にもチャーシューとシナチクを基本に、醤油味、味噌味、塩味に合せて工夫をこらし、その店独自の味を出そうとしていますが、総じて上川の味はシンプルで重さがなく、あと味がさわやかだというのが定評のようです。

ラーメンの味付けはある程度は完成されています。ですから、あまり奇をてらうことをせず、オーソドックスな味作りの中に個性を発揮しようとしているのが主流のようです。

柴山さんは「これまでラーメンといえば、あまり美しくない料理というイメージがあります。そんなイメージを払拭するような美しいラーメンが作れないものか」と大根おろし、紅しょうが、に長ネギを添えたラーメンを作っています。

「大根おろしの白は大雪山の雪、紅しょうがは大雪山の紅葉、長ネギの緑は上川盆地の草原、それに白ゴマを振りかけて地吹雪をと、わたしなりのストーリーを表現してみたつもりです。また大根おろしはラーメンの油濃さをやわらげますし、紅しょうがは臭みを消す効果があって、わりあい好評です」とのこと。また、なにか地元産の素材を使いたいと、上川の特産であるアンガス牛の肉でチャーシューを作っているということです。

「きれいな水と空気、緑豊かな町のラーメンは日本一」そんな抽象的なフレーズを食べものに結びつけたアイデアとエネルギーが注目されてテレビや新聞の取材が相次ぎ、メンバーが予期した以上のスピードで知名度を高めるようになりました。そのことが契機になって、町の内外でさまざまな反響と波及効果を生みはじめています。

イベントグループが生まれ御輿かづきが復活した

そのひとつが『上川一座』の結成です。かつて地方公演をつづける統一劇場(現在は現代座)がこの町にやって来ることになったとき、この公演を成功させようと立ち上がったのは商工会青年部(鎌田康雄部長)を中心にした町の若者たちでした。結集した人数が60人というのも呼びかけ人たちを驚かせましたが、その熱気に満ちた行動がまた町の人たちの目を見張らせました。空き家を事務所にして夜遅くまでポスターやチラシを作り、入場券の販売に町内ローラー作戦で各戸撃破の毎日をつづけ、公演を大成功させたのでした。上川一座は公演が終わったあと解散するはずでしたが、このまま解散するのは惜しいという声がだれからともなく持ち上がり、その後も30数人が残ってピアノリサイタルや各種イベントの企画運営を一手に引き受けて活動をつづけています。

イメージ(30数年ぶりに復活した祭典の御輿かつぎ)
30数年ぶりに復活した祭典の御輿かつぎ

もうひとつ、これも商工会青年部が夏祭りに御輿かつぎを復活させたことです。開拓時代いらい盛大に挙行されていた大上川神社の夏祭りも、過疎化が進み、町から若者の姿が減りはじめた1960年代後半から御輿の担ぎ手が少なくなり、御輿はトラックに乗せて町内を素通りするさびしい祭りがつづいていました。威勢のいい御輿渡御を復活させよう―の呼びかけで約150人が集まり、眠っていた夏祭りに活気がよみがえりました。お年寄りの担ぎ手も続々名のりをあげ、『長生き御輿』が竹で新しく作られました。それでも、まだ担ぎ手は余っています。「上川は木材の町だから」と、『ログ(丸太)御輿』も作り、3基の御輿が毎年町をねり歩くまでになりました。

ここにも、商工会青年部の会員でもある『ラーメン日本一の会』のメンバーの活躍が目をひきます。

全国ラーメン・サミット開催の音頭とりも

イメージ(本市街郊外にも観光客を呼び集めたアンガス・フェスティバル)
本市街郊外にも観光客を呼び集めたアンガス・フェスティバル

町内旭ヶ丘で、若者6戸の農家が世界2大肉専用種のアoーディン・アンガス種を飼育する『アンガス牧場』を経営しています。この牧場は標高700メートルの丘陵地にあって大雪山が一望でき、青空の大きさが迫ってくる景勝の地です。経営者たちは牧草地の一部でジャガイモ、ビートと小麦を耕作していますが、連作ができないため3つの畑を交互に1年間休耕しなければなりません。そこで、3年前から休耕地に菜の花の栽培をはじめました。毎年6月下旬から7月上旬にかけて、残雪が美しい大雪山連峰と青い空の下に、一面まっ黄色な菜の花が咲きそろいます。この花の盛りにあわせて、アンガス牛の焼肉を囲むアンガス・フェスティバルを開き、市街地側の新しい景観地に観光客の足を引きつけつつあります。

1984年(昭和59)、開基90周年の記念事業として上川公園内に大雪展望台を建造し、フランスのメーカーに特注した直径1.5メートルという大きな「エスポワールの鐘」を設置しました。エスポワールとはフランス語で「希望」のこと。毎日、午前9時から3時間ごとに5音階の鐘の音を打ち鳴らしています。この展望台も、大雪山の眺望がすばらしい場所です。「温泉街など山麓近くに入ってしまうと大雪山の全景を見ることができないので、ぜひ市街地のからの展望を、この鐘の下で」という思いが込められています。

食べものは文化です。その文化から生みだされる微妙な味やし好は個人的な評価にゆだねられ、客観的な味を求めるのはむずかしいものです。しかし、そのきわめて抽象的、主観的な味覚にあえて「日本一」を標榜し、そこからまちおこしのエネルギーと付加価値を生みだしたのが、柴山さんたち上川町のラーメン店主のみなさんです。

この会の活動が刺激になって、栃木県佐野市と山形県米沢市にもラーメンの会が誕生しました。来年は、さらにラーメンを名物にしている全国のまちに呼びかけて、ラーメン・サミットを開きたいと張り切っています。

上川町ラーメン日本一の会加盟店


加盟店 住所 電話(01658)

食事と喫茶の店 角  中央町 2-1094番
鈴蘭食堂 中央町 2-1625番
きよし食堂 中央町 2-1473番
喰処 ゴードーしばやま 中央町 2-1726番
あさひ食堂 南町 2-1738番
くみあい食堂 北町 2-1018番
レストハウス上川 栄町 2-2131番
ドライブイン和 旭町 2-2628番
愛山渓ドライブイン 東雲 2-1195番
麺’S倶楽部えすぽわーる 共進 2-1571番
ドライブインふたば 共進 2-2075番
層雲ラーメン 層雲峡 5-3311番
層雲峡レストハウス黒岳 層雲峡 5-3031番
三輪商事 新町 5-1606番

上川町ラーメン憲章


上川町のラーメンは、大雪山麓の清らかな麗水で製麺し、スープをつくり、麺をゆであげ、加えて洗練された技術と研究により、お客様に日本一おいしいラーメンと喜ばれることを自負し、そのためにあらゆる努力を傾けることを誇りとして、この憲章を掲げます。

1、ラーメンのスープを90℃にして出します。
2、ラーメンの味を守るため、一度に多量の麺をゆでません。
3、ラーメンの味を楽しんでいただくため、各店独自の味を出します。
4、ラーメンの日を毎月一日とします。
5、ラーメンを気持ちよく食べていただくため、店内を清潔にします。
6、ラーメンをこよなく愛し、お客様をあたたかく迎えます。

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