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1995年05月号/第68号  [特集]    清水町

小さな町に湧きだした熱い心の合唱活動が地方文化のあり方に地殻変動を巻き起こした
せせらぎ合唱団 清水町

  
 日高山系の麓に広がる平野の小さな町に生れた「せせらぎ合唱団」は、合唱にはほとんど無縁だった町の人たちを誘い集めてベートーヴェンの第九交響曲『合唱付き』の演奏を成功させ、全国のアマチュア合唱団に“第九”ブームを巻き起こした合唱団としてあまりにも有名です。その37年間の活動は、辺地校への巡回演奏をはじめ、全国の町や村に招かれてさわやかな歌声を送りつづけてきました。今年は公演回数400回達成と、5年に1度ひらく“第九”演奏の年。「山麓に発したせせらぎが大河となって大地をうるおすように」という団員たちの祈りを込めた歌声は、全国の人びとに変わらぬ感動を与えつづけています。

3月4日、帯広市の隣町、音更小学校で芸術鑑賞授業がおこなわれました。午後1時半、屋内体育館には600人の児童の拍手に迎えられて、純白のドレス、タキシードに正装した「せせらぎ合唱団」の団員30数人がステージにすすみました。指揮に立ったのは、この合唱団を主宰する高橋亮仁(りょうじ)さん(63)です。オープニングは校歌演奏。そして、次々と4つのパートから流れる美しい混声のハーモニーを、目を輝かせて聴き入る児童が目立ちました。

その日の夜、398回目の公演も鹿追町で開かれました。音響効果のよい町民ホール・ホワイトホールに約300人の聴衆が集まり、高橋さんの長男でオペラ歌手として活躍中の高橋伸仁さんも特別出演し、春まだ浅い十勝の夜にさわやかな文化の風を送りました。

せせらぎ合唱団(郵便089-0136 清水町本通9丁目、電話01566-2-2842)が生まれた清水町は、日勝峠を十勝平野に下って最初にたどり着く町。ジャガイモ、豆類、ビートが主な畑作と酪農が営まれる人口1万2千人の小さな町。しかし“第九の清水町”といえば、多くの人が「ああ、あの時のさわやかな感動を思い起こす」といわれるほど知名度の高い町です。

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清水町は“第九のまち”をキーワードに、さまざまなまちおこしをすすめています。中央公園ハーモニー広場に設置された“からくり時計塔”が、時刻がくると人形の楽隊が飛びだして第九の『歓喜の歌』を奏でます。郊外の清水公園や美蔓(びまん)パノラマパーク、日勝峠にはカリヨン(鐘)時計塔、ペケレベツ川に架かる石山橋(メロディー橋)からも『第九』の合唱が流れます。そんなこの町のアイデンティティーを生み育てたのが、せせらぎ合唱団なのです。

3人の女性の発意から友が友を呼んで…

イメージ(主宰の高橋亮仁さん)
主宰の高橋亮仁さん

イメージ(清水町文化センターの落成記念だった第1回『第九』演奏会(1980年12月7日) 指揮 大場陽一郎さん)
清水町文化センターの落成記念だった第1回『第九』演奏会(1980年12月7日) 指揮 大場陽一郎さん

人びとの心にようやくゆとりが芽生えはじめた1958年(昭和33)11月、新設されてまもない清水高校が新学期から音楽の授業を開講することになり、音楽教師の高橋さんが赴任してきました。そんな折、ピアノ教師だった姉の紅見子(くみこ)さんのもとに、近所の魚屋さんの娘さん(当時・佐藤玲子さん)が御用聞きに訪れ「みんなで、なにか楽しいことをしたいわね」という。「それなら弟が音楽教師だから、お友達を誘ってコーラスの練習でもしたら」。玄関先でそんな立ち話が交されました。年が明けてまもなく、佐藤さんはふたりの友人を伴って高橋さんのもとにやって来ました。紅見子さんのピアノ伴奏で何曲かを歌う、それはどんなに楽しかったことか。高橋さん姉弟と3人の女性たちは、この日(1959年1月7日)を合唱グループ結成の日と決め「もっと大勢の人を誘いましょうよ」と誓いあって別れました。「友が友を呼び、まもなく30人ちかい仲間が集まるようになりました」と高橋さんは当時を語ります。

練習場は高橋さんの自宅。乾いた土に水を得た花のように、いきいきとした歌声が毎週、高橋さんの家から流れました。ところが、若い男女が集まって何をしてるんだといぶかる声や、歌を習うくらいなら花嫁修行でもしたほうがいいというのが一般の認識。「それなら自分たちが何をしているかを町の人たちに知ってもらおう」ということになりました。練習をはじめて半年、建設されてまもない公民館を借りて、初めての演奏会を開くことにしました。

公民館にはピアノがないので、近くの小学校のグランドピアノを借り、自分たちで持ち運ぶことにしました。傷をつけてはならんと、きつく言われているので、力はいるし、気をつかう。ようやく運び終わったら、こんどはステージづくり。晴れ舞台なのに制服がない。女性は白のブラウスに黒のタイトスカート、男性は黒っぽい背広に蝶ネクタイだけでも締めようか。高校生は学生服の襟を内側に折り込んでタキシードの真似ごとにしよう―など苦肉のアイデアもとび出す。しかし、開場と同時に満員。高橋さんの指揮、紅見子さんの伴奏で日本の合唱曲を中心にした演奏は大成功でした。

せせらぎが大河となって大地をうるおすように

イメージ(創立30周年記念講演で上演された『カルメン』 中央のエスカミリョ役は高橋伸仁さん)
創立30周年記念講演で上演された『カルメン』 中央のエスカミリョ役は高橋伸仁さん

第1回演奏会は成功しましたが、グループにはまだ名前がなかったのです。そこでネーミングをどうしようかということになりました。意見百出のなかに“せせらぎ”という名の提案がありました。日高山系に源を発して町内を流れるペケレベツ川はアイヌ語で“清い水”。それを意訳したのが町の名です。清らかな湧き水がせせらぎとなって流れだし、しだいに小川を集めて大河となって大地をうるおそう―それが団員の願いであり祈りでもあったのです。

まもなく広尾町から出演依頼が舞い込み、誇り高いネーミングでの最初の演奏会となりました。歳末助け合いの賛助出演、公民館祭、青年会芸能祭にも出演して、ピアノ購入基金の募集を呼びかけました。町の人の協力は高く、その益金を町に寄付し、団員たちの願いがかなえられました。

地元を中心に、演奏会は順調に回を重ねていきました。その活動が十勝管内でも注目されるようになり、帯広市合唱連盟から市民合唱祭への出演を誘われました。

イメージ(毎週の演習は主宰者・高橋亮仁さんの自宅で 37年の歴史を積んだ団員の心はいつも青春)
毎週の演習は主宰者・高橋亮仁さんの自宅で 37年の歴史を積んだ団員の心はいつも青春

「10年間は基礎づくりと思っていたところへ、突然、檜舞台での他流試合です。思い切って出演させてもらうことにしました。しかし、相手は帯広市内でキャリアを積んだ10数団体。郡部からの出演は私たちだけです。ステージ衣装もなく、恐るおそるのホールの下見に行ってみると、ステージには反響盤が張られ、音響効果抜群です。いつも演奏している公民館は多目的ホールで、逆に吸音設備のほうが整っているのです。さすが音楽専用ホールは違う。感激のなかで歌い、思わぬ拍手をいただきました」。とはいっても、曲目は3曲、、10分足らずの演奏時間です。自分たちの歌を存分に聴いてもらうため、単独ステージを実現しようという思いが団員に芽生えはじめました。

郷土の文化と誇りを届けた東京文化会館の公演

1968年10月、「せせらぎ合唱団設立10周年記念演奏会」と銘打って、帯広市民会館に単独乗り込むことになりました。

「ところが、チケットの販売がたいへん。清水町と帯広市は33キロも離れているのに、団員のなかに車を持っている人が誰もいないのです。休日や勤めの終わった夜に汽車に乗って往復し、知人やさまざまなツテをたよっての券売活動。その合間にポスターやプログラムも作ったり、税務署とも折衝しなければなりません。私たちの下手な演奏だけではしのびないので、中央の音楽界で活躍しているピアニストの岩本義哉さんとヴァイオリニストの加藤幸子(こうこ)さんに友情出演を依頼する。ほんとうに必死の思いでした」と高橋さん。

この単独演奏会も大成功でした。ステージを終えたあと、岩本さんから思いもよらぬ言葉が贈られました。

「この合唱団なら、東京でも通用する。東京で公演したらどうだい」。地方にいても、地方だけの活動で終わらせたくない。文化は都会も田舎の別なく共有しあうことができるはず―と思っている高橋さんの心にこの励ましが大きく残りました。

結成いらい14年のあいだに70回を超す公演を積み重ね、清水町文化賞にはじまって十勝日報文化賞、北海タイムス社会善行賞、北海道知事賞など数々の賞を受け、着実に力量を磨いてきました。そして、いよいよ東京単独公演の夢を実現する時を迎えたのです。

「地方の若者がどんどん都会へ去っていく時代でした。ふるさとを離れて、東京で頑張って働いている人たちに、ふるさとの便りを伝えたい、それが東京公演開催のメッセージでした。公演のすべての費用は自費なので、4年間、毎月1千円ずつ貯金し、お金と心を積み立てました」と高橋さん。

確保した会場が、こともあろうに国内外の一流演奏家が目白押しの、日本を代表するコンサートホールのひとつ、東京文化会館(台東区上野公園)です。

イメージ(農村景観の美しい「第九の町」清水町)
農村景観の美しい「第九の町」清水町

メインにする曲目は、かつて山で遭難した上智大学山岳部の学生の母親の手記をもとに清水脩さん(1911~1986)が作詞・作曲した合唱組曲『山に祈る』としました。ナレーション付きのこの名曲は、前年の北海道中央芸術祭に十勝代表として出演したときに、初めて演奏した曲。歌い終わった拍手のなか、頬も手のハンカチも涙でぬらしたおばあさんがステージに上って高橋さんに感激の握手を求めるほど感動を呼んだ曲です。1972年10月10日と決まった東京公演は、この曲を再演することにしてプログラムを作りかけました。

「そうだ、プログラムに清水脩先生のあいさつ文を載せられないだろうか」と、高橋さんは思い立ちました。しかし、グリークラブ出身の団員は「清水先生といったら日本合唱界の大御所中の大御所。在学中なんどお願いしても書いてもらえなかった」というのです。清水脩さんは全日本合唱連盟の名誉会長であり、400曲におよぶ合唱曲を作って“合唱の父”といわれる人。しかし、お願いするだけはしてみようと手紙を出すと、なんと「興味がある。ぜひお会いしたい」という手紙が返ってきました。そして3月、札幌大谷短期大学の集中講義に来道した折、大雪の日にもかかわらず清水町に足をはこんでくれたのです。

さっそく5曲ほど聴いてもらいました。きびしい批判があるものと覚悟していたところ「うん、これでよい。上手に歌おうと思ってはだめだよ」という励まし。『吹雪の歌』では「やはり、北海道の合唱団でなければ吹雪の感じは出ないね」といううれしい評価で団員を勇気づけてくれました。東京公演のときも、清水さんは旅館で出迎えて、黒砂糖の栄太郎あめまで差し入れてくれるほどの気遣いを示すのでした。

イメージ(第398回公演(3月4日・鹿追町) 特色は大地に根ざした力強い歌声)
第398回公演(3月4日・鹿追町) 特色は大地に根ざした力強い歌声

東京文化会館小ホールの650席は、満席でした。大ホールではN響の定期演奏会が開かれていました。ロシア民謡やオペラ合唱曲などにつづいて清水脩編曲の『北海盆歌』、フィナーレは『山に祈る』です。東京芸大生によるパーカッションと電子ピアノの伴奏で、最後のフレーズ「お母さん、ごめんなさい」のハーモニーが水をうったようなホールに消えていくと、一転して大拍手がホールに響きました。清水さんがステージに進み出て「すばらしいコンサートでした。私は、みなさんに音楽の原点を教えられました。地方でのあなたたちの活動は、中央に地殻変動を起こした大きな文化活動です」と賞賛してくれるのでした。清水さんに声をかけられて、N響とかけもちで聴きに来た音楽関係者も「とても途中で席を離れる気にはならなかった」という人も多かったのです。

合唱のことを知り尽くしている清水さんが、のちの手紙に書いています。「音楽の感動は技術からうけることもあるが、根底は“こころ”である。ともすれば都会的な小細工をきかせ、形だけは整っていても内容は空疎で、じっくりと線の太い表現を見失う傾向がある。しかし、せせらぎ合唱団には小手先の細工が毫もなく、伸びやかな、そしておおらかな表情で歌い切る姿があった。公害だらけの東京砂漠の一隅に、彼らはせせらぎの一滴を残して去った」と。

「東京公演では、東京で働いている清水高校の卒業生にずいぶん協力をしてもらいました。前売券の販売は彼らだけが頼り。5枚、10枚と郵送しての押し付け販売です。わざわざ田舎者を宣伝するようで、いやな思いをした人もいたはずですが、これならもっと券を送ってもらえばよかったと残念がってくれる教え子の言葉がうれしかったですね。大都会に暮らす人たちに、郷土の文化と誇りを届けることができたと思いました」と高橋さんは話します。

イメージ(常に励ましてくれた合唱の父・清水脩さん)
常に励ましてくれた合唱の父・清水脩さん

プロの合唱団が吹き込んだ『山に祈る』のレコードは、母親の朗読を声優の加藤道子さんが担当しています。そのすばらしさを清水さんに話すと「私が頼んであげよう」と引き受けられ、それが15周年記念演奏会で実現しました。加藤さんはせせらぎ合唱団の『山に祈る』をとても気にいり「公演のときは、きっと呼んでね」という言葉。それから加藤さんとの長いかかわりがつづき、共演回数は数えきれないほどになっています。第2回の東京公演の時など、重体のお母さんが病床で加藤さんの手のひらに“せせらぎ”と書いて送り出してくれたとのこと。ご兄弟を亡くした翌日も出演してくれたのです。

小さな町の大きな挑戦、『第九』に町民の熱情が結集

東京公演のあと、今後の夢は何かと聞かれて「オーケストラをバックに歌いたい」と言ったのが現実となったのです。しかも、合唱音楽の最高峰であるベートーヴェンの交響曲第九番『合唱付き』。10万都市以外での演奏は不可能といわれる大曲を、当時、人口1万3千人の小さな町での挑戦です。

1980年、折しも新設の文化センターのこけら落としに大演奏をと計画したのです。町民を動員することになり、八方手を尽くして、やっと8月、結団式にこぎつけました。参加者は204人でした。

イメージ(「農作業と合唱の両立は大変だけれどみんな時間を工夫して、できるだけ休まないようにと頑張ってるんです」と牧野和繁さん)
「農作業と合唱の両立は大変だけれどみんな時間を工夫して、できるだけ休まないようにと頑張ってるんです」と牧野和繁さん

イメージ((上)人形の楽隊が飛び出して『第九』のメロディーを奏でる『からくり時計塔』 (下)メロディー橋も『第九』の合唱が)
(上)人形の楽隊が飛び出して『第九』のメロディーを奏でる『からくり時計塔』 (下)メロディー橋も『第九』の合唱が

それからが、たいへんです。参加者の年齢層は中学生から72歳の高齢者まで。商店の主人、畑作農家や酪農家とその主婦、農村青年、役場の職員、教員、サラリーマン、学生とさまざまです。教科書以外に楽譜を手にしたこともない人たちが、まして原語で歌わなければならないのです。幸い、清水高校にドイツ語のできる教師がいました。帯広畜産大学のドイツ人夫妻の留学生も指導にあたりました。原語にカタカナのふり仮名をつけた楽譜を見ながら、テープを聞いて暗譜するのです。しかも世界の文豪シラーの崇高な詩の心を理解し、表現しなければなりません。会社の机や冷蔵庫に発音表を貼り付けて、勤務や家事と兼業の練習。みんな涙ぐましいまでの努力でした。「このごろ、息子は“大工”のアルバイトをしているらしい」と心配するお年寄りもあったとか。

「3カ月も過ぎたころから、意外な反応が現れだしました。牛舎にテープを持ち込んで練習をしているうちに、搾乳量が増えだしたとか、九官鳥のほうが先に暗唱した。夫婦や親子で練習してコミュニケーションが増し、家庭が明るくなったというエピソードが寄せられるようになったのです」。

“フロイデ”の大合唱が全国に感動を呼び起こす

12月7日、落成したばかりの文化センターは超満員です。共演のソリストは常森寿子(ソプラノ)伊原直子(メゾソプラノ)下野昇(テノール)高橋大海(バリトン)。そして、指揮者は大町陽一郎、管弦楽は札幌交響楽団のみなさんです。

ベートーヴェン音楽の集大成といわれ、シラーの詩とともに人類愛をうたいあげる不滅の曲が、冒頭から会場を感動につつみました。楽章がすすんで、いよいよ第四楽章。序奏、そして渾身の力を込めた大町さんのタクトに合わせてティンパニーが鳴りわたる。合唱の全員が立ち上がり「おお、友よ、このような音ではなく、私たちはもっと心地よい、もっと歓びに満ちた音楽を歌おうではないか」というバリトンの叙唱。それを歌い終わるのを待って「Freude!」(フロイデ=歓喜)と合唱団の第一声。ステージの、そして会場の町民の感動は早くもクライマックスに達しました。あの主旋律と展開を歌うソリストたちの独唱と四重唱、それにこたえての大合唱。力強い和声です。―星の天蓋の上に神を求めよ星の上に創造主はかならず住みたまう―。大町さんが終章の管弦のプレスト(きわめて速い演奏)を振り切ったとき、万雷の拍手が会場にとどろきました。ステージも客席も感涙に光り輝いています。

「ソリストの伊原さんが演奏中も涙をいっぱい溜めて歌っている。あとで聞くと、泣けて泣けてどうしようもなかったと言うのです。大町さんは『プロは、素人が努力しただけでは泣かないものだが、この合唱団にはそれを超える何かがあった。聴衆にも気迫と連帯感があり、すばらしい町だと思った』と言ってくれました」と、高橋さんは語ります。この『第九』演奏は、せせらぎ合唱団を中心に町民が一丸となった快挙でした。1年後には、東京都台東区で“区民第九”が公演されるなど、以後、アマチュアの挑戦が波のうねりのように全国に波及し、現在もつづいています。

「第九は1回きり、全身全霊をこめて演奏すればいいと思っていたが、周囲がそれを許してくれませんでした」(高橋さん)ということで、5年後、ふたたび大町さんの指揮で公演されました。このとき合唱に参加したのは256人。第3回は新進の山下一史さんがタクトを振り、バス・バリトンには高橋伸仁さん、313人の町民参加となりました。そして今年、4回目の公演が予定されています。町の教育委員会が参加者の募集を開始しました。

今年は公演400回と5年に一度の『第九』演奏の年

イメージ(言語にふり仮名をつけた楽譜で練習をつんだ町民のみなさん)
言語にふり仮名をつけた楽譜で練習をつんだ町民のみなさん

37年という時の流れのなかで、町を離れて行った団員も大勢います。「延べ人員は500人を超えているでしょうか。今も名簿には70人前後が名を連ねていますが、常時練習に集まれるのは30数人。でも、大きな公演の時には50人以上が各地から集まってくれます」と高橋さん。

みんな歌うことが大好きな人。「せせらぎ合唱団では高校生から高齢者まで心をひとつにして歌い、自分の幅を広げることができる。それがよろこびです」と主婦の望月有子さん。製麺業を営む中村誠夫さんは「団員同士の和がすばらしい。そのくせ、練習のあとなど、みんなすぐ帰ってしまう。純粋に、歌ひと筋の集まりです」。高校生のころからつづけている大熊均さんも「初期にはレクリエーションも企画しましたが、音楽だけで充分心が通じあえると、いつのまにか立ち消えになりました。公演旅行でも宴会などしたことがありません。音楽だけのつながりで、みんな満足なんです」。

せせらぎ合唱団は「生涯学習の一環」という精神を最初から持ちつづけています。しかも、アマチュアだからこそ持つ、生活の中からにじみ出た音楽を多くの人に聴いてもらい、そこから文化の一端を感じとってほしいというのが団員みんなの願いです。

「だから、せせらぎ合唱団の歌を聴かせてほしいというお誘いがあれば、万難を排してどこへでも出かけます。費用の心配はしないでください」と高橋さん。399回目の演奏は地元の保育所でした。400回目は6月の帯広合唱祭になりそうですが、そのあいだに依頼があれば、それが400回目の記念公演になります。

「ベートーヴェン自身によって『第九』が初演されたウィーンで歌ってみたい」というのがみんなの夢です。

声が力強い、思いで深い合唱団

イメージ(東京芸術大学音楽学部教授 大町 陽一郎さん)
東京芸術大学音楽学部教授 大町 陽一郎さん

東京芸術大学音楽部教授 大町 陽一郎さん

私は今まで何回も“合唱”を演奏してきましたが、なかでもこの合唱団は、声がいちばん立派な合唱団でした。みなさんたいへん発声が良くて、団としてまとまりがあり、まじめに勉強している。高橋先生が音楽に対して誠実であり、その精神がゆきわたっています。

日本人のコーラスは大体において声が弱い面がありますが、あの合唱団は声がたいへん力強い。なぜかと考えたら、酪農家など重労働をしている人が多い。声を出す、からだの筋肉が鍛えられているのです。

最初、練習に行ったとき、十勝の平野にある小さな町ですから、情けない声を出して歌うのだろうと思ったら、あまりすばらしい声だったので驚きました。それで私も本気になりました。オーケストラの札幌交響楽団は、いろんなところで『第九』を演奏していて“第九慣れ”していますから、最初は「どうせ、たいしたことはないだろう」と思っていました。ところが、歌いだすと、楽員たちがみんな座り直して「すごいコーラスだな」と言ったのを覚えています。ソリストの4人も「この人たちは、いったいどんな教育をうけているのか」と、振り向いたくらいでした。それで、ひじょうに熱心に演奏され、たいへん立派な演奏会でした。

その演奏を、モノラルですがレコードにしました。私がドイツのケルン日本文化会館の館長を務めていたときに当時の大統領、ワイツゼッカーさんが視察においでになりました。そのときに、私はそのレコードをさしあげたのです。すると、大統領は「これは、たいへんなことだ。これだけの『第九』を日本人がドイツ語で歌うとは」と、お褒めの言葉をいただきました。私にとって、たいへん思い出深い『第九』でした。

コーラスにだいじなことは、みんな心を合わせてひとつのものに向かうこと。それが、この合唱団はとくに優れています。その精神を忘れず、将来もっとすばらしいアンサンブルになっていくよう努力してほしい。その際に、自分はもうベテランだから1回くらい休んでもいいだろうということではなく、つねに初心に返って研鑚をつづけてほしいものです。清水町のコーラスは日本じゅうで有名です。そんなときに「やっぱり、おれたちはうまいのかな」と思いがちです。しかし、コーラスというものは、その瞬間から質が低下していきます。

私は今年、置戸町で初めて『第九』を演奏するので、清水町のビデオを見せ、みんなに「参考にしよう」と言っているところです。(談)

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