ウェブマガジン カムイミンタラ

2008年07月号/ウェブマガジン第22号 (通巻142号)  [特集]    

純民間で運営10周年 次のステップへ
三浦綾子記念文学館―旭川―

  自治体や一企業に頼らないという、個人名を冠した文学館としては全国的にもあまり例のない運営形態を続けてきた三浦綾子記念文学館。大勢の賛助会員やボランティアに支えられながら10周年を迎えました。館内展示を刷新し、三浦家に残された資料を集約、三浦文学の研究拠点としても新たな歩みを始めています。

4カ国語表示などでリニューアル

イメージ(三浦館長(右)と斉藤副館長)
三浦館長(右)と斉藤副館長

北米やヨーロッパなど外国種の針葉樹がまっすぐ天に向かって林立する「見本林」。JR旭川駅から車でおよそ10分ほどにある平地の国有林は、明治時代に外国由来の樹種が日本の寒冷地で育つ状況を観察するために設置されました。そしてこの見本林という名を広く世に知らしめたのが三浦綾子さんが小説家としてデビューした作品「氷点」でした。

10年前の1998年(平成10年)6月13日、この林の入口に、国有地を借りる形で三浦綾子記念文学館が開館しました(カムイミンタラ第87号特集参照)。 そしてちょうど10年後の2008年6月13日午前9時、この文学館の前で三浦綾子さんの夫だった三浦光世館長たちによるテープカットが行われたのです。10年を迎え館内の展示をリニューアルしたことのセレモニーでした。

文学館では10周年記念として数々の事業を計画しました。その皮切りは4月8日から始まった文学館2階回廊の「新聞記事で見る三浦文学館の10年」で5月末までに3期に分けて展示されました。次に「文学散歩」です。5月23日にバス1台を使って三浦綾子さんが生まれ育った住宅地や熱心なクリスチャンとして通った旭川六条教会、小説「塩狩峠」の舞台となった和寒町の塩狩峠、そしてこの小説の主人公、永野信夫のモデルとなった長野政雄さんの記念碑(墓)がある近文(ちかぶみ)墓地などを訪ねました。この文学散歩は9月26日にも小説「泥流地帯」をテーマに催される予定です。

イメージ(リニューアルされた館内)
リニューアルされた館内

こうして開館記念日の6月13日を迎えました。リニューアルは10年前の開館以来の刷新となりました。その特徴は、展示資料集をしぼって少なめにし、解りやすさを追求したことです。そのために「三浦綾子が語りかけるもの」というコンセプトで三浦綾子さん自身が語ったり書いたりしてきたその時々の言葉を展示しました。また日本語だけでなく英語、韓国語、中国語が併記されました。

イメージ(当日は三浦館長も説明に当たりました)
当日は三浦館長も説明に当たりました

2階の図書室には大画面の液晶モニターを設置して視聴覚資料がより見やすくなりました。それに2階の1室は企画展示室で、パネル展示を随時変更できるようにしています。館の外では収蔵庫の建設が始まっていました。秋には完成し、三浦文学の資料がそこに集められます。リニューアルや収蔵庫建設のねらいなどについては後述します。

10周年を祝う

イメージ(綾子さんとの思い出などを語る三浦館長)
綾子さんとの思い出などを語る三浦館長

この日は午後から作家谷村志穂さんの記念講演会、そのあと記念式典、祝う集いと続きました。84歳となる三浦光世館長(カムイミンタラ120号特集参照)は「ボケがかっていますが」と会場に笑いを誘いながら、一連のイベントごとにしっかりした口調であいさつに立ちました。

十勝岳噴火による農民たちの苦難を描いた「泥流地帯」と小林多喜二の母親が自分の生涯を語る形の「母」は、光世さんが綾子さんにぜひ書いてくれと頼んで生まれた小説だといいます。「私の言うことには何でもハイと応えるのに、なかなかハイと言わなかった。私、農家の経験がないので、ちょっと難しいと。それで私は、氷点だって経験がないのになんでも書いたじゃないかと…」そんなエピソードも披露されました。三浦文学でまず読んで欲しいのは「氷点」「塩狩峠」「道ありき」「泥流地帯」「母」「銃口」だといったお話もありました。

イメージ(谷村志穂さん)
谷村志穂さん

記念講演をした谷村さんが氷点を読んだのは札幌西高校時代でした。きっかけはその前に読んでいた同級生が、主人公の陽子のように真っ白な雪の中で息絶えたいと言ったことだったといいます。彼女の胸の内が知りたくて読んだのです。そのときは陽子の境遇にただただ切なく悲しかったのですが、谷村さんが母親になり40歳代となって改めて読み返したときに、陽子ではなく母の夏枝の視点で読んでいることに驚いたそうです。そしてミッション(伝道・使命)をもって、それに人間のさまざまな情念を肉付けする三浦文学の特徴をあげたあとで「すばらしいのは、生き生きしていておもしろいこと。いろいろな人を吸引する力を持っている」と小説家らしい感想を披露しました。

イメージ(西川旭川市長)
西川旭川市長

式典では西川将人旭川市長が「東京にいるときに、旭川出身だと言うと、氷点の旭川ですね、と何人もから言われた」と、東京在住当時には旭川を代表するものが三浦文学だったことを、坂口収上川支庁長は「子どものころ日曜学校に通って塩狩峠を読んだ。見本林に立つと文字とは別な、体で感じることができた。こうした場所があることは後世の人々にとって幸せなことだ」と体験を語りました。

記念式典で感謝状を贈られたのがボランティア組織の「おだまき会」のメンバー72人です。曜日ごとに班を組んでおり、その代表が壇上に立ち三浦館長から感謝状が手渡されました。

イメージ(坂口上川支庁長)
坂口上川支庁長

おだまき会は文学館の職員と一緒に受付や喫茶店などの仕事をしているボランティア組織で、毎日3人が交代で詰めており、1人が1ヶ月に1~2回の割で仕事をしています。10年前の開館時に誕生しました。名称は三浦綾子さんが好きだった野の花で見本林内でも見ることができます。開館に先立ってこの会が結成されたとき、綾子さん自身が候補に上げました。代表の後藤静子さんは「これからも綾子さんが喜んでくださるような働きができるようにしてまいりたい」とお礼の言葉を述べました。

後藤さんによると72人以外にも転勤などで旭川を離れた人が多くいて、式典会場に駆けつけました。励みになるのは、全国からやってくる来館者との交流だそうです。おだまき会のメンバーは三浦文学の知識も豊富で、その説明をすることも仕事の1つですが「私どもの方が来館者からいただくもののほうが多い気がします」と話してくれました。

イメージ(後藤静子さん)
後藤静子さん

こうして式典、そして祝賀会と続きました。記念事業はほかにテノール歌手の五郎部俊朗(ごうろべとしろう)コンサートが8月30日に予定されています。

また秋には収蔵庫が完成する予定です。作品を次々に生み出していった綾子さんですが、そのために膨大な量の資料を集めました。それらは三浦家の前にある1軒を借りて保管していましたが、それらをすべて移すために収納庫が必要となったのです。

寄付とボランティアの文学館

イメージ(三浦夫婦が通った旭川六条教会)
三浦夫婦が通った旭川六条教会

三浦綾子記念文学館のこれまでを振り返ってみましょう。1995年12月、三浦綾子記念文学館設立実行委員会が約3千人の実行委員によって結成されました。綾子さんは当初、自分の名前を冠した文学館の設置には難色を示していました。旭川在住または由来する作家はほかにも多く、「旭川文学館」のようなものができたときにその片隅に置いていただければ、という意向だったようです。しかし市民や全国に広がるファンにとって、三浦綾子の存在は別格でした。そうした人々の熱意に押し切られる形でこの文学館は建設に向かって動き始めたのでした。

イメージ(体が不自由な綾子さんは礼拝堂の一番後ろの椅子に座っていました)
体が不自由な綾子さんは礼拝堂の一番後ろの椅子に座っていました

それから2年半を経て1998年6月13日、三浦綾子記念文学館がオープンします。その間、三浦綾子記念財団(三浦光世理事長)が結成され、旭川市が1億2千万円、北海道が1億円の補助を決め、また周辺自治体からの支援もありました。財団は個人が1口2千円、法人が1口2万円で、目標を1億2千万円に定め、寄付集めを開始、総工費およそ3億円の文学館建設に着手したのです。

オープン後の運営は財務基盤の弱い純民間の財団が担うために職員の数が限られます。そこでボランティアのおだまき会が結成されました。文学館の動きを広く伝え、支援者たちとの橋渡しにもなる文学館報の「みほんりん」が創刊されました。三浦文学の代表作の点字本と音訳テープが江別市のボランティアたちによって制作されました。初代館長には元旭川大学長で文芸評論家の高野斗志美さんの就任が決まりました。そうして開館の日を迎えたのです。

イメージ(おだまき会のメンバー)
おだまき会のメンバー

しかし翌年の99年10月12日三浦綾子さんは多臓器不全のため亡くなります。77歳でした。25日には市民会館大ホールで偲ぶ会が開かれました。そして02年7月には高野館長が亡くなり、財団理事長でもある三浦光世さんが館長を引き継ぎ現在に至っています。

出版、コンサート、大小講演会、作文賞…

イメージ(旭川農業センターで開発された新種のユリにはフリージング・ポイント(氷点)と名付けられました)
旭川農業センターで開発された新種のユリにはフリージング・ポイント(氷点)と名付けられました

この10年間に三浦綾子記念文学館はさまざまな事業を展開してきました。
 02年には絵本「まっかなまっかな木」が文学館の監修で北海道新聞社から発行されました。これは綾子さんが書いた唯一の童話とされ、75年に小学館の幼児向け絵本月刊誌に載ったもので、交流のあったダウン症の画家岡本佳子さんが絵を描き、27年ぶりによみがえりました。

ほかにも03年には「綾子・光世 愛つむいで」が、04年6月には「氷点を旅する」が、07年には「生きることゆるすこと-三浦綾子新文学アルバム」が文学館の監修でいずれも北海道新聞社から発行されています。

館内や屋外でコンサートも数多く開かれました。またこども将棋大会なども開かれ、優勝者が光世館長と対局しています。

イメージ(文学散歩では旭川市内を一望できる綾子さんの思い出の場所も訪ねました)
文学散歩では旭川市内を一望できる綾子さんの思い出の場所も訪ねました

ホテルを会場にした大規模な講演会も開かれました。山田洋次さん「わたしと寅さん」(99年)、瀬戸内寂聴さん「切に生きる」(01年)、曽野綾子さん「自分にとって大切なもの」(02年)、星野富弘さん「私の北極星」(03年)などがありました。

文学研究者などが講座を次々に開いていく「リレー講座」は開館翌年の99年から始まりました。ほかに03年には館長に就任した光世さん自らが「小さな講演会」を始め、定期的に文学館2階でお話をしています。また06年からは文学館の特別研究員となった森下辰衛さんの「ミニ講演会」も加わりました。

文学館独自の賞も新設されました。99年に創設された三浦綾子作文賞は小学、中学から高校の3部門で作文を募集、08年にちょうど10回目を迎えます。

台所の支えは賛助会員

イメージ(バス内で説明する斉藤副館長)
バス内で説明する斉藤副館長

こうして開館から10年を経た三浦綾子記念文学館ですが、純粋な民間運営であるだけに、その台所は厳しいものでした。開館初年度(98年6月~99年3月)には6万人を超えた入館者は2年目(4月~翌3月)から4万人台となり、5年目には3万人台、7年目には2万人台となって、この3年間は2万1~3千人です。入館料は大人500円、高校・大学生300円、小・中学生100円で団体は割り引かれますので、年間1千万円ほどにしかなりません。

現在、文学館は年間2500万円ほどで運営されています。財団の基本財産として4千万円を保有していますが、そこから生まれる利子は微々たるものです。足りない分を補てんしているのが、2千人以上にのぼる賛助会員たちの会費や寄付金です。個人の年会費が1口2千円、法人が1口2万円、団体が1口5万円となっており、この数年は入館者の減少で賛助会員たちからの収入の方が入館料を上回る状態です。それにさまざまな寄付金、館内で販売される本、グッズ、喫茶店などの収益を合わせてまかなわれています。

斉藤傑(まさる)さんは5年前に副館長となり実務を担当しています。「3万人、4万人と入っていたころはある程度のことはできたのですが、だんだんと少なくなって2年間赤字状態に陥りました。そこで職員の給料を含め支出を切りつめて、どうにかこの2年は赤字にならずに済んでいます。やはり入館料で支えられることが正常な形で、いろいろと働きかけをしてきましたが、入館者を増やすのは難しいことでした」

入館料でまかないきれないことは文学館や美術館、博物館などに共通しているようですが、ほとんどは自治体や企業が運営主体になったり全面バックアップをしています。しかし三浦綾子記念文学館は自らが資金を調達しながら運営していかなくてはなりません。

今回の10周年記念事業でも、要した資金は収納庫建設の約3500万円を含めて約5千万円。これらは寄付によって集められましたが、そのうちの4千万近くは個人や法人、団体といった民間からで、半分以上が道外から送られてきました。全国に広がる三浦文学ファンによって日ごろの運営も記念事業も支えられているのです。そのため10周年事業は、熱心なファンに支えられての低空飛行をなんとか打開し、入館者を増やす新たな展開を図るためでもありました。

心をとらえる展示に

イメージ(展示では綾子さん自身の言葉が4カ国語で表記されています)
展示では綾子さん自身の言葉が4カ国語で表記されています

今回の展示の刷新では説明書きに日本語のほか英語、韓国、中国語が加わることになりました。三浦文学は世界のさまざまな言語に翻訳され出版されています。とくに韓国では氷点がロングセラーで、映画化やドラマ化もされています。文学館でも韓国からの入館者が最近どんどん増えてきました。しかし三浦文学の聖地ともいえるこの文学館にはるばるやってきても表示は日本語だけで、つまらなそうにしていたのが現実だったそうです。そこで韓国語などが加えられました。

新しい展示では綾子さん自身の言葉をたくさん紹介し、それが中心になっています。どれも人間の生き方を想う上でクリスチャンのみならず、さまざまな人々にインパクトを与える言葉です。もし三浦文学にあまり接してこなかった人も、その言葉に接すれば新たな境地に立つこともできるのです。

文学館にやってきた人が自由に書き込む「想い出ノート」。拾い読みしてみると古くからのファンがいるのはもちろんですが、この文学館の訪問をきっかけに三浦文学に触れる第1歩になったり、さらに深めようと思った人が少なくないことがわかります。

イメージ(想い出ノートにもハングル)
想い出ノートにもハングル

「失礼ながら僕は三浦さんの本を一度も読んだ事がありません。ご健在かどうかも知らない状態で入館しました。ただ昔から母に三浦さんの本を読みなさい、と勧められた事を思い出し立ち寄らせて頂きました。そして読みたいと思いました。きっかけをくださいました当館に感謝します。次回、母も連れてこれたら良いな」

「初めて訪れました。三浦さんの本は2・3冊しか読んだことがないのですが今日の展示をみて読みたい作品が今うずをまいています。ビデオでも展示でも心に残る言葉、沢山あり涙が出ました。三浦綾子さんの本を購入し自分のバイブルにしたいと思います。素敵な展示の数々、ありがとうございました」

「三浦綾子先生の小説の中に出てくる言葉に自分に対しての教訓をとても感じました。この記念館に来るまでは三浦綾子さんにほとんど関心がなかったのですが、三浦綾子さんの作品をこれから見てみたいと感じました」

主人公の実像を追う

イメージ(塩狩峠、愛と死の記録)
塩狩峠、愛と死の記録

2007年7月「塩狩峠、愛と死の記録」(いのちのことば社)という1冊の本が出版されました。小説「塩狩峠」の主人公、永野信夫のモデルとなった鉄道キリスト教青年会のリーダーだった長野政雄さんの実像を追いかけたノンフィクションです。著者は中島啓幸(ひろゆき)さん。旭川市内の重症心身障がい児施設で働いています。

中島さんは1994年、25歳のとき、長野政雄さんや三浦綾子さんと同じ教会に行ってみたいと思い旭川六条教会に通い始めました。それから三浦夫妻との交流が始まり洗礼も受けました。休暇を利用してインドのマザーテレサに会いに行くとき綾子さんが持たせてくれたのが英語版の塩狩峠です。それをマザーに直接手渡すことができ、アヤコ・ミウラにとお礼のメダルをもらって帰国しました。三浦夫妻のまるで息子のように交流していた中島さんですが、あまりに「長野さん、長野さん」と言うので綾子さんが言ったそうです。

「あなた、そんなに長野さんのことを大事に思っているなら塩狩峠の続編を書いてみたら」「それだったら、長野さんに生き返ってもらわなければなりませんね」と切り返した中島さんに、綾子さんはほほえみを浮かべていたといいます。

イメージ(中島啓幸さん)
中島啓幸さん

そのひと言があって中島さんは余暇のすべてと多額の費用を使って長野さんの実像を追うのです。小説の中の永野さんは暴走し始めた列車を止めるために身をレールの上に投げ出して轢死します。しかし実際には長野さんが自ら飛び込んだという説とハンドブレーキを回していうるうちに滑って転落したという説があり、それは綾子さんも知っていました。覚悟の死なのか?過失なのか? そんなことも中島さんの追及テーマとなりました。

中島さんは5年間というもの、休みのほとんどを取材につぎ込みました。北海道内はもちろん東京、大阪、名古屋と足を運び、帰りに千歳空港に着いて旭川に向かったものの列車がなくなり岩見沢で一夜を過ごしたこともありました。思いもよらぬ出会いや発見もありました。長野さんの義理の姪御さんを東京に訪ねたとき、帰りぎわに大事に保管していたものを託されました。それは赤黒いしみがべっとり付いた長野さんのものと思われる小型の聖書でした。

「小説の中の永野さんもすごいけれども、本物の長野さんはもっとすごい人でした。こういう人が旭川に生きていたんだ、それに綾子さんが感動して書かれたということで、身が震えました」

イメージ(塩狩峠を訪れた文学散歩)
塩狩峠を訪れた文学散歩

中島さんが現在取り組んでいるのは、5年前に行われた随筆家の岡部伊都子さんと三浦館長との対談を「綾子と伊都子 平和への遺言」(仮)という本にすること。また戦前・戦中に先生をしていた綾子さんのかつての教え子たち20人ほどにインタビューした録音テープがあるので、それを「堀田綾子先生への伝言」といった形でまとめることなどです。それにアイヌ民族で登別に生まれ、小学校から職業学校卒業まで旭川で過ごし、アイヌ文化を広く世に知らしめる仕事をしながら19歳で亡くなった知里幸恵さん(1903~1922)に関する団体「知里森舎(ちりしんしゃ)」の活動もしています。

三浦文学を探究する

イメージ(森下辰衛さん)
森下辰衛さん

三浦綾子記念文学館特別研究員の森下辰衛さんはミッション系の福岡女学院大学で日本の近代文学を教える助教授でした。大学の研修制度を利用し、より深く三浦文学を研究しようと2006年4月、奥さんや4人の子どもたちと一緒に旭川にやってきたのです。研修期間は1年でしたが、それを過ぎても福岡に帰らず、大学教員の職を辞して旭川にとどまり研究を続けています。支給された研修費用を返還したため退職金は減り、特別研究員といっても文学館からの給与などまったくありません。

「カネのことだけで決めるのではなく、ほんとうに納得できる仕事はなにか。読書会や研究をしながら自分の人生をもう一度練り直す時期だと考えて、もう少し残ることにしたのです」

毎月1回三浦文学の1作品を取り上げてのミニ講演会を館内で開いています。

イメージ(長野さんの碑の前で朗読する森下さん)
長野さんの碑の前で朗読する森下さん

「月に1回、研究成果の発表のようにしてミニ講演会を開いています。そのためには30~40枚の原稿を書かなくてはならない。そうやって1作品ずつやっていくと小説だけで50いくつありますから、5年やれば全作品の解説の原稿ができます」

特に力を入れているのが全道各地で開いている読書会です。公共施設や教会などさまざまな会場で、森下さんが話をしており、その数は10数カ所にのぼります。主催者はさまざまで、読書会の形態も500円や300円の参加費だったりカンパだったりといろいろ。収支は全体をならすと旅費分が赤字にならない程度だそうです。

森下さんは綾子さんの創作ノートなどを丹念に調べています。

「受賞した『氷点』を朝日新聞の連載用に書き直し、同時に『ひつじが丘』を書き始めるころだと思うのですが、六条教会の牧師の説教が書いてあったり、いろんなものが一緒くたになっているノートがあります。その中に『主よ書かせたまえ 主よ書かせたまえ』と何行も書いているところがあったんです。びっくりしました。祈りでもあるんでしょうけど、叫びですよ。私は三浦綾子はでき上がった作家としか知らなかった。それが、叫びながら、祈り求めながら書いていっている…。そんな血を吐くような叫びは、年を追ってだんだん少なくなっていくのですが」

10周年記念事業で新たに設置される収蔵庫には三浦家に残っていた資料のほとんどが収められる予定です。段ボール箱などに入れられた膨大な資料をまず整理し、それから少しずつ読み解かれていくことになります。

中島さんや森下さんなど、三浦文学やその生き方を研究し、それを発表していく人々が現れたのも文学館10年の成果でしょう。そして資料の集約により、今後は研究拠点として機能することにもなります。文学館では今後「三浦綾子研究」といった出版物の創刊も視野に入れています。



関連リンク三浦綾子記念文学館  http://www.hyouten.com/

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